2月 3 2014
檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む
檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』を読む。ベルクソン-ドゥルーズと西田哲学の擦り合わせをとても分かりやすく解説している。西田の著書自体を読んでいなので何とも言えないが、ベルクソン-ドゥルーズが深く踏み込んでいない永遠性を通した他者と死に関する捉え方がOCOT情報に極めて近い。
2014年は死の観念を変革していくことに力を注いで行こうと思う。死とは西田のいう「永遠の今」とほとんど大差ないもののように思える。流れ行く時間が生の母胎であるとするなら、死の母胎とは流れることのない時間であり、それは生と密着して今・ここに同時にある。
死を隠蔽するのでもなく、超越化させるのでもなく、生の中に内在するものとして捉えること。そして、その生の内在の方へと眼差しを向けること。他者との出会いが可能となる場所は、まさしく、そうした生に内在する死の場所においてである。
生の場所を直線的時間と見なせば、死の場所とはこうした直線が円環化するところに現れる。奥行きとはこの円環の径を為す物である。西田における純粋経験の場所としての奥行き。生に内在する死は無限の過去から未来という直線上で起こることのすべてを記憶として抱く無底の器のようなものだろう。
「真に生きる」とはこの無底に触れて生きることであり、生命の力もそこから発している。物理学的にはこの円は時間直線上を転がっていく円として表現されるが(ユニタリー発展)、むしろ展開されているのは直線的時間の方である。
この転倒を是正するところに「生に内在する死」が、むしろ真の生として浮上してくるのだろうと思う。「奥行きに主体を見ると」いうことは西田のいう「純粋経験」に通じている。主客未分の連続性としての死の生命がまずあるのだ。そこから、生命は「自己限定」を為すために接線としての直線を繰り出す。
そして、その接点において純粋経験は自己限定を「反省」する。この仕組みを達観することが西田のいう「絶対無の自覚」ということになるのだろう。
檜垣の分析通り、ここにはドゥルーズの〈差異化〉と〈差異化の差異化〉という二段構えの差異化の循環性が息づいている。この循環性は物理学における量子化と第二量子化の手続きと同型対応するものだ。両者を繋ぐメタ知覚を概念として創造すること。そうすれば、世界から「死」という観念は消える。
5月 6 2016
田邊元という哲学者
甲田氏から借りている田邊元の本。旧字体でなかなかとっつきにくかったのですが、時間ができたのでゆっくり読み進めています。方向性がベルクソン=ドゥルーズとそっくり。さらには数理的にはドゥルーズよりも深い思索をしていることに驚いてます。スピノルの解釈などもヌーソロジーと全く同じなのが二度びっくり。
田邊の思考の柱は内包的時空の世界弁証法というやつにある。この弁証法はヘーゲルのように同一性への綜合へと向かうのではなく、絶えず差異化を行っていく。つまり、外延においては部分が全体に先立ち統合へ向かおうとするが、内包においては全体が部分に先立ち、その限定として部分が思考されていくということ。
田邊の思考が内包的時空へと侵入した経路がまたすごい。たぶん西田からの影響だと思われるのだけど、そこにも「切断即連続」という彼なりの世界弁証法の思考が働いている。つまり、外延(実数直線)を切断しているのは内包だという考え方だ。分かりやすく言えば、直線をある点で切る無限小の刃幅のナイフとはどんなナイフなのかというと、それは実は直線全体を含んで内側へと入り込むものだといったようなイメージ。(ヌーソロジーのいう「コンパクト化」と似てる)
田邊は、外延と内包が接するこの交点を万物が交錯する絶対弁証法の蝶番のようなものと見なして、その位置のことを「現在(瞬間)に相当する矛盾の渦動的統一の中心」と呼んでる。そして、はっきりとは明言してはいないものの、その渦動的統一の中心を複素平面と見なそうとしていた様子もうかがえる。なんて人だ!!
今から半世紀以上も前に哲学と物理学をここまで接近させて思考していた哲学者が日本にいたということに心底驚く。字体を変えて復刊してほしい。ほんま読みづらくて(笑)
田邊を読んでいて改めて思ったが、まずは「内包」という概念を取り戻そう。霊やスピリットという表現でもいいのだけど、それだと似非宗教の手垢がつきすぎていて一般では拒絶する人も多い。「内包」や「持続」という表現であれば言葉は固いけれど、僕たちに創造の思考を促していくキーワードに成り得るのではないか。要は、物の内部と時間把持の場所概念というものを意識に再生させるのだ。
もちろん、それらを奥行きの空間と重ね合わせて。ここがヌーソロジーのキモ中のキモ^^。
田邊は複素2次元空間についても、それが絶対的弁証法成立のための基盤であるかのように語っている。嬉しくなるよね。もちろん、それが自己と他者における奥行きと幅の双対的構成とまでは語ってないけど(笑)
いずれにせよ、この二重の十字路が田邊がいうところの「矛盾の渦動的統一の中心」と言っていいと思うよ。存在の力はすべてこの捩れから発生してきている。要は物理学が「場」と呼んでいるやつだね。
物理学の「場」と聞くと、途端に難しく聞こえるかもしれないけど、本質はどんな人にでも分かるものだと僕なんかは思ってる。早い話、自他の純粋な奥行きと幅の関係がスピノル場だと思うよ。そして、自己、他者それぞれが自分の奥行きと幅を同一化させているところがベクトル場。ほんでもって、自他が奥行きと幅をそれぞれ交換し合っているところがスカラー場。スピノル、ベクトル、スカラーというのは物理量の基本とも呼べるものなのだけど、全部、眼差しの交差の産物なんだよね。どういう交差を持つかによって、それぞれ空間の質が違ってくる。
この対応から考えると、僕らが時空と呼んでいるものとは、自己と他者が共に自分の奥行きを他者から見た幅に置き換えて認識してしまっているところに生じてきている。何度も言ってるけど、それが外延世界の本性だよ。内包(=奥行き)から完全に疎外された場所。それを宇宙と呼んでいるなんてちょっと怖くならないかい。そこには自分の居場所なんて存在してないよ。
でもね、現在のほとんどの学問はそこを拠点にして作られているんだよね。内包として活動している自然生命がガタガタになるのは当たり前だよ。
田邊で物足りないのは、田邊がこの内包性の数理構造を社会理論に転化させて思考しているところかな。これは中沢さんなんかも同じ。いわゆる「種の論理」というやつなんだ。内包の発展から外延が生じるのだけど、これをいきなり今の社会に当てはめてしまうと、カントと同じように超越論的なものを経験に従属させてしまうことになっちゃう。ここがドゥルーズと大きく方向性を異にするところだね。田邊元のような人でも、創造的境域という発想がないんだね。晩年の西田が田邊のことをファシストと言って批判していたのも、このへんの思考性に原因があるのかも。
でも、正直、このへんは現在の哲学の限界なんだろうと思う。人間の思考が宇宙を再―創造する力があるなんてことを誰も信じていないだろうからね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: カント, スカラー, スピノル, ドゥルーズ, ベルクソン, 中沢新一, 弁証法, 田邊元, 複素2次元空間, 西田幾多郎