『人間の建設』が忘れ去られてしまった世の中

出版者の友人O氏から小林秀雄と岡潔の対談本『人間の建設』が贈られてきた。ざっと目を通す。昭和40年に為された対談なので、もう5O年以上も経っているわけだが、少しも古さを感じさせることなく、大変面白い。岡潔が何度も「知力の低下」を嘆いているのが印象的だった。
 
岡潔が言う「知力の低下」とは何も知識を学ばなくなったことを意味するわけじゃない。もはや心を思考や知の母胎としなくなったということ。これは最近にいう「感情の劣化」とも深く関係していることだろう。人々から世界の肌理を感じ取る感受性がどんどん失われていっているということ。
 
以前、ヌーソロジーの波動関数解釈について少し話をしたが、僕自身は、こうした話もこの岡潔のいう「知力の低下」と無関係な話じゃないと思っている。
 
今回も、また過激に次のように吠えた(笑)
 
「素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは人間の意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。」
 
嬉しいことに、この一文に対して、専門家のS氏から次のようなコメントが寄せられた。
 
「これは非常に重要なポイントですね。科学者は通常、素粒子を物質の延長として捉えている。」
 
僕のレスは次の通り。
 
「はい、素粒子の哲学的理解のために、文字どおり物の見方の転換が必要ですね。「所与を与える当のもの」という差異の考え方が必要だと思います。」
  
ここで言ってる「差異」とはいつも引き合いに出すドゥルーズの概念なのだけど、差異とはドゥルーズによれば次の通り。
 
「差異は、雑多なもの(le divers)〔感覚されるもの〕ではない。雑多なものは、所与(le donne)〔感性に与えられるもの〕である。しかし差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。―ドゥルーズ「差異と反復」P.333
 
かなり難しい言い回しをしているけど、要は、差異とは所与を与える側の能動的な知性のことを言っていると思えばいい。これはヌーソロジーの「ヌース」とほぼ同じ意味だ。ヌーソロジーの考え方から言えば、素粒子とはその意味で、受動的知性(人間)から見た最初の能動知性の姿だと言うことができる。
 
この知性にあっては、知るものと知られるものは常に同じ一つのものだ。つまり、主客一致が現実化している。観測者が関与しなければ観測対象も姿を現し得ないという、量子論的世界の特徴がそれを端的に指し示している。
 
アリストテレスは能動知性のみが、人間のうちにあって不死にあずかるとした。彼の霊魂論である。あえて、古めかしい言い方をするなら、ヌーソロジーにとって素粒子とは霊魂のことでもある。目に見えるもののすべては目に見えない力によって支えられている。その世界像を思い出さないといけない。
 
人は知性において宇宙の原理、はじまりに参与し、不死にあずかる。知性とは本来そういうものだということ。単なる知識の蓄えや、操作的思考は知性とは真逆のものだと考えていい。岡潔の言う「知力の低下」という言葉の本意も、こうした本来の知の匂いを全く嗅ぐことをしなくなった、今の「知る」の現状のことを言っているのだろうと感じる。
 
世界を対象として見ることをしない、もう一人の自分を作って行こう。そのためには、自分の内に深く分け入り、その内を外へと繋いでいくことのできる思考を立てていかなくてはいけない。そうした思考が立ち上がってこない限り、世界は何も変わらない。そして、私自身も。
  
人間の建設』、いい本です。興味がある方は是非、ご一読を。