3月 23 2018
人間を変形(トランスフォルム)し、宇宙的胎児へと変えてていくためにヌーソロジーが選択した方法論について
タイトル、長 !(笑)
今日もまた執拗にヌーソロジーのエントランスの話。ここは手を変え品を変え、何度でも話していく。いひ。
今、自分の眼の前にリンゴがあるとしよう。「人間の内面」では、リンゴは下図のようなイメージで捉えられている(下図1)。
こういう概念枠で世界を見たとき、「わたし」はどこにいるのだろうか?肉体として捉えられる「自分」だろうか?そう考えているのが、普通の良識というものだね。
しかし、いかんせん、知覚の現実はそうなってはいない。「自分の前にリンゴがある」とは、こういう状況を示している(下図2)。
こうした空間をヌーソロジーでは「人間の外面」と呼んでる。「人間の内面」と「人間の外面」。。違いが分かるかなぁ?違いがすぐに分かる人は、ヌース的センスがある。分からない人は、さようなら(笑)、うそ、分かるまで考えようね。
ここに示した「人間の内面」を男の空間、「人間の外面」を女の空間と呼んでいいかもしれない。この二つの空間は全く別物なのに、今の僕らはゴッチャにしている。いや、正確に言うと、「人間の内面」が「人間の外面」を従属させて、抑圧している。それが結果的に、人間を苦しめ、世界の何たるかを全く分からなくさせていると思っていいと思うよ。いつも言ってるように、これらは社会的個として生きる「わたし」と、精神的個として生きる「わたし」の関係のようなものだ。
この図1と図2だけど、哲学者の大森荘蔵も、これらの関係を「面体分岐」と呼んで区別したんだ。ただ、この呼び方だと図2(面)が図1(体)の一部でしかないように聞こえてしまって、「人間の外面」があたかも「人間の内面」の空間の中に含まれているかのような印象を与えてしまうよね。
ヌーソロジーは両者の間には絶対的な差異があるよ、と言いたいのね。別個の生き物なの。だから、はっきりと別物として見ないとダメ。
じゃあ、たとえば、どんな差異かと言うと、図1では「わたし」は空間の中を動き回る存在として理解されるけど、図2では「わたし」は決して動かない。TPV/FPV(三人称視点と一人称視点)の関係だね。つまり、図1では、「わたし」は様々な位置で物を見てるってことになるけど、図2の方では、「わたし」は一つの位置で様々なものを見てるわけ。つまり、絶対不動の「わたし」になってる。
不動ということは、図2の「わたし」の方は3次元空間の中にはいない、ってことだよね。じゃあ、どこにいるのか—当然のことながら、3次元の外にいるってことになる。その3次元の外を「無限遠点」という場所にしよう—というのが、ヌーソロジーの考え方。
このへんはシュタヌー本でも書いたけど、数学では3次元空間に無限遠点を付け加えると、3次元射影空間というものになるのね。
だから、図2の空間は、本当は3次元射影空間というものになってると考えなくちゃいけない(下図3参照/xyzに対して直交してるってこと)。このとき、「見る」=奥行きというのは原点への射影線になっていて、これは図からも分かるように、4次元空間の方向にあるんだ。
つまり、4次元意識というのは、自分は動いていなくて、世界の方が動いていると考えるところに、そのベースがあるということだね。
このときの4次元が、ヌーソロジーが「真の奥行き」と呼んでいるもので、時空と絶対的な差異を持ってる方向ってことになる。で、ここにベルクソンのいう「純粋持続」が生まれていると考えるわけだ。
で、この4次元方向を「虚軸」と見なして、4次元における自他関係を考慮しながら、現代物理学が素粒子と呼んでいるものと接続させていく。
結果的にこの方向に素粒子空間の発展プロセスが展開していき、個体化のプロセス(人間の自我を成り立たせているもの)が作られて行っているのだけど、このプロセスを通して、「人間の内面」も実は「人間の外面」から作られていることが分かってくるだよね。これらのプロセスをすべて思考に浮上させて、時空の裏に息づく、自分自身の裏身体の空間を作っていくことがヌーソロジーの当面の目標ってことになる。顕在化ってやつだけどね。
………………………………し〜ん。(笑)
ありゃ、スピ大好きの女性群からは「男の思考~!!」って声が聞こえてきそうだけど、でも、そうじゃないよ。従来の女に騙されてはダメ。これは、女の領域に男であったものが救済に入っている、って見ないといけない。精子(ロゴス)が卵子(パトス)に侵入しているわけ。というのも、人間の外面を思考しようとしているわけだから。
ヌーソロジーが意識変容のために何でこんなリジッドな方法論を取るのかというと、こうした差異の思考が生まれて初めて、人間は物質的意識(人間の内面の意識)から解放されると考えているから。無意識を能動的に意識化することによって、初めて今までの意識の勢力を沈静化できると考えてるってこと。
感覚に即した思考を自動機械のように反復させるのではなくて、感覚自体を変容させる思考を感覚に抗って作り出していくことが反転における反-思考というもの。幾何学的構成(カタチの形成)はそのための強力な力になると思ってる。
ここで生まれてくるカタチこそが卵割であり、宇宙的胎児の誕生なんだよ。
6月 15 2018
〈精神化した自然〉への逆ビッグバンを!
自分と自然を一つの全体とみなせるような思考を作り出すためには、理念なるものがいかに生きて活動しているのか、それを感じ取れるような新しい知覚を生み出さなくてはならない。その知覚においては、思考は主観的であると同時に客観的でもあるような場所に出る。つまり、「見ること」が同時に「見られるもの」となっているような場所が開くということだ。その場所において、わたしたちは初めて「ある」と「いる」から逃れた「なる」の世界風景に出会うことができるのだ。
このような場所への移行の試みは過去幾度となくされてきた。たとえば、哲学者・大森荘蔵のいう「面体分岐」。大森の言い分に従うなら、見えている世界(面)は内在であり、見られている世界(体)が外在となる。これは、ヌーソロジー的に言うなら、前者は真正の奥行きの世界だが、後者は幅化した奥行きの世界だということに対応している。主体としての光と客体としての光の違いと言い換えるのもいいかもしれない。客体的光は言葉を担い、主体的光は知覚を担っている。実は、ここに「終わりの精神」と「始まりの精神」の連携がある。
この連携をカバラは「ツィムツーム(収縮)」と呼んでいる。神の時空からの撤退。物質化した空間から、精神化した空間への移行のことだ。「モナド化の身振り」と言い換えてもいいだろう。精神化した空間は、必然的に自然の精神化を要請してくる。このとき、光は秒速30万kmで時空を疾走することやめ、結晶化して光のスピンとなる。
量子論に登場するスピンとは、モナド化の発生を表現するものだ。ライプニッツが言うようにモナドには窓がない。ただし、モナドは双子として生み出される。それが光のスピンの固有値±1の意味と考えよう。ただし、モナドは回転の自由度という形で共可能性を球形の鏡の中に映し出す。そこにおいて、他者のモナドの多数性は確率(位相)として現れる。
並行宇宙とは、このときに現れる他者宇宙のことを言っているにすぎない。モナド的感性が欠如した同一性の思考がエヴァレットのような多世界解釈の幻想を作り出す。
モナドは他のモナドを映し込むことによって、また、他のモナドに映り込む。わたしたちが自我と呼んでいるものも、この〈映し-映り込み〉の結果における産物と考える必要がある。わたしに先立って、わたしをわたしたらしめているもの。それが無意識の役割であり、無意識の構造はこうして素粒子のシステムとして自然界における物質の基底に息づいているわけだ。
つまり、「なる」世界においては、人間とは始まりの存在であるということ。このイメージを取り戻そう。この視座の奪回によって、人間は人間であることから解放される。生物学的人間の中に人間のイメージを閉じ込めておく理由などどこにもないのだ。己自身の内圧を高めて、内側から宇宙を破裂させること-。
ヌーソロジーから見ると、人間という存在は、物質化した自然を精神化した自然へと逆ビッグバンさせるために、神々がセットした特異点なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カバラ, ツィムツーム, モナド, ライプニッツ, 大森荘蔵, 素粒子, 量子論