5月 25 2021
4次元空間を3次元空間との類比で考えないこと
4次元空間について考えるとき、数学的な思考はほとんどの場合、3次元空間との類比で考えてしまう。これはエドゥイン・アボットの「フラットランド」以来の伝統。ここに挙げた4次元空間の解説動画もそれに倣っている。
【ゆっくり解説】4次元空間を考えてみよう!
でも、おそらく、この方向では4次元空間については永遠に分からない。
ヌーソロジーの考え方では、
・4次元空間は延長的なものではない。
・4次元空間は観測者の空間である。
・4次元空間は持続として働く空間である。
・4次元空間は時間軸が反転したものである。
・4次元空間は収縮を余儀なくされる。
4次元は空想的なものではなく、”現実的”なものであり、4次元を数学的に対象化して空想しても無意味だと考える。
4次元空間をなぜ3次元空間との類比の中で考えてはいけないかというと、時間的側面が何も考慮されていないからだ。私たちは時間抜きの空間なんてものは経験したことがないし、また、経験もできない。
時間的にいうなら、3次元空間とは”今”のことと考えるのが妥当だろう。3次元空間を今この瞬間と考えるなら、今の内部側が4次元空間で、今の外部側が4次元時空と考えると面白いかもしれない。そう考えれば、僕たちは「今の内部」から「今の外部」を見ることによって、今を3次元空間と感じているわけだ。
そして、言うまでもなく、「今の外部」は今において「今の内部」へと次々と回収されていってる。その回収作業を僕らは記憶と呼んでいる。4次元空間を持続空間だと仮定した場合、そういう感覚になると思えばいい。つまり、過去と未来というのは直線上に並んでいるんものなんかじゃなくて、「今という3次元」に対して内と外の関係として働いているもの。ヌーソロジーではそういう考え方をする。
3次元空間に対して内というのは、もちろん物の内部のこと。そして、外というのは物の外部のこと。そう考えればいい。ヌーソロジーの「付帯質の内面」と「付帯質の外面」という区分も、こうした4次元においての二つの方向の違いを見ている。つまり、4次元が人間の意識の方向を二つの方向に分けているんだね。
物を物質と呼んで対象として見ている限り、意識は物の外部(付帯質の外面)に文字通り疎外されたままで、”今”の中には入れないわけだよ。「物の中には決して入ってはならぬ」という一神の勅命がここには働いている。その命を頑なに守ることよって、人間の歴史は動いてきた。僕が「ユダヤ的精神」と呼んでいるのもそれ。
「ユダヤ的精神」というのは、創世記と黙示録というように、始まりと終わりの間で働く精神のことだ。まぁ、「光あれ!」の教えだから致し方ない。光は直線的にしか進まないからね。だけど、黙示録にもあるように、この光にも終末があり、その終末にはアルケー(始源)が訪れる。これが彼らのいう神の降臨を意味してる。ここにおいて、物(今)の内部への侵入禁止の立て札が外されるわけだ。
時代はすでにこの局面に入ってる。物の内部への侵入が許可されたのだ。ただし、ここには、物の外部の延長線上で物の内部へと入っていく方向と、物の外部を反転させて物の内部へと入っていく方向の二つがある。後者には前者は見えるが、残念ながら、前者には後者は見えない。この見えない状況は、伝統的に「過越しの風」と呼ばれている。この風が吹いている最中(さなか)、私たちはどのように生きるべきか―言うまでもなく、その選択は一人一人の自由意志に任せられている。
7月 26 2022
存在を開こう
@jikucafe
返信先: @kohsenさん
核質で覆われた世界のなかでは、無核質は弱く、それを利用するという転倒したかたちで見られてしまうのでしょうか。アワとサヌキのように。
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半田広宣
@kohsen
はい。人間の経験的意識が活動している位置が核質と呼ばれるものに当たります。無核質は核質においては素粒子の全体性として反映されています。その意味では電子を始めとした素粒子を利用したテクノロジーは無核質を転倒させて利用していると言えますね。シュタイナーにいう堕落したエーテルのことです。
以下、雑感。
素粒子を土台にした物質世界全体が霊的世界(エーテル界・アストラル界・神界)の転倒として表現されているということが人間の意識にはまだ見えてない。その原因は自己が自分を他者と同類の存在と思ってしまっているからだね。自己存在が無意識化していて、まだ立ち上がっていない。その位置が核質という人間型ゲシュタルトの場所。
物質世界を「所与」と呼ぶなら、所与を与える当のものの世界があって、それをドゥルーズなんかは「差異」と呼んでいる。ハイデガーの「存在」も同じ。ヌースの言葉で言うなら、この「差異」や「存在」の世界が無核質に当たる。核質は対象概念の力と言い換えもいい。無核質は、その意味では主客未分離の意識領域のようなものだ。
精神的個や霊的個体というのは、この無核質が意識に形作られたときに初めて自覚的に生まれる。これは哲学でいうところの超越論的なものが構成されている場のこと。つまり人間の経験的意識を作り出している側の世界。この無核質は付帯質の内面領域(物の内部)で働いている。それを顕在化させようともがいているのがヌーソロジーの営み。
科学的唯物論というのは核質膜で世界が閉じている状態。存在者のみで世界を見てしまっているということ。それこそ所与を与えている当のもの側について一切思考しようとしていない。それがハイデガーが云う”存在忘却”というやつ。私たちが「ある」と思っているものは、むしろ全き無なのではないかと勘ぐったのがハイデガーなんだね。
この状況のことをOCOTは「付帯質の妄映」って呼んでいた。世界が目の前に見えてはいるのだけど、中身は空っぽで、ハリボテだということ。存在者の世界が存在を構成する高次元の影なら、まぁ、そういうことになるわな。
だから、ほんとうは、存在を通して存在者が見えるようにならないといけない。そのためには一度、物の内部に入ってそこから外に出て、”存在”のルートを目覚めさせる必要がある。それがヌーソロジーでいうところの位置の等換という作業。持続側から時間を出現させるということだね。存在は持続→時間によって存在者として花開く。
私たちはそこに至って初めて、世界のこの多様な現前を自分や他者との関係性の中で問うことができ始める。
これからの時代はその方向に向かうべきじゃないかと思うけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, ドゥルーズ, ハイデガー, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 素粒子