11月 18 2019
令和の時代の訪れに日本人として考えるべきこと
先日大嘗祭が行われたことから、以前、星田妙見宮の拝殿でさせていただいた話を思い出した。
この話はOCOTとアクセスできていた7年間にゲットした様々な情報を一つのストーリーとして僕なりに整理したものです。
全体の物語構成が見えたときはかなり興奮した。
だけど、こんな超越的な話を鵜呑みにしちゃいかん、一体全体、この話はマジなのか? マジだとするなら、そこにどんな論理があるというのか。
まずはその論理立てが不可欠だと考えた。
かつ、その論理を人間の経験の粋にまで落とし込めなきゃ、「ほんとうのこと」とはとても言えない。
従来の宗教が持った超越性のカベも、全てここにあるわけだからね。
で、OCOT情報が面白いのは、こうした超越的なことを言いっ放しにするのではなく、その論理立ての方法が素粒子の中にあると明言してきたことなんだよね。かつ、そこに立ち現れてくる論理は、僕ら人間の思考によっても十分に経験可能なものになっていくと。
おいおい、この話もマジで言ってるのか?
とりあえず後者の話を信じ、既存の物理学や哲学を色々と調べ上げて出来上がってきたのが現在のヌーソロジーだと考えるといいよ。
この大嘗祭の話がどのような形で僕らの意識に経験可能なものになってくいくというのか——その入り口が4次元知覚というものにあるわけ。
4次元の入り口から見える風景をヌーソロジーでは「ヘキサチューブル」って呼んでる。それは下の図で示すように六芒星の無限の入れ子構造になってる。
で、この六芒星って何よ?ってことなんだけど、OCOT曰く——
中性質があるということ。意識が通る道。
?????????????
なんじゃそれ?
で、大嘗祭がらみで言うと、これが「ヤタノカガミ」のことだという。
あちゃあ~~!!!!!
ホンマ、やられましたわ。この鏡を挟んで、手前に「わたし」、向こう側に「あなた」が写されているってことなんだけどね。
で、このカタチを数学で表現しているのが、ここのところヌース物理部でも頻繁に話題に上がっているSU(2)(複素二次元回転群)というヤツなんだよね。
複素二次元空間というのは4次元の空間なんだけど、普通の4次元空間じゃなくて、4次元が二つに分解されたもの、といった感じのもの。
で、この空間の中に生まれる鏡の中に「わたし」と「あなた」が共に落ち込んでしまうと、4次元は見えなくなって3次元の中に入っちゃう。いつも言ってるように、奥行きが幅化してしまって3次元とゴッチャになってしまうわけ。
このとき作用している群がSL(2.C)というやつで、それによって時間と空間が生まれ、そこから見ると、ヤタノカガミだったSU(2)が物(タマ)のように見えちゃう。
OCOTはそうさせた作用を「位置の等換(イチノトウカン)」って呼んでる。
多分これは、「わたし」と「あなた」の位置を同一化させてしまう作用のことを言ってる。他者の視点で世界を見てしまう、ということだね。
またまた、あちゃあ~~!!!!! という感じ。
ホント、個人的には「勝負あった!!」という感じなんだよね。これが、これからの人間が持つべき空間のプラットフォームだろうってね。
自分と物を別々なものとして見る3次元の対象意識はこれから確実に消えていく運命にあると思うよ。そして、ヤタノカガミの中に張り巡らされた「カンナガラノミチ」を「わたし」と「あなた」が歩む時代がやってくる。
これが「人間の意識の交替化」というやつ。
「あなた」は悠紀田(ゆきでん)へと入り、「わたし」は主基殿(すきでん)へと入り、同時にそこに「ヒトの交替化」というものが決行されていく・・・。
天皇という存在が何を象徴し、また、天皇にまつわる様々な儀礼、儀式が何を伝承しているものなのか、日本語の精神を持つ日本人なら、この令和の時代の訪れを機にしっかりと考えないといけないね。
ヤタノカガミはもう開いているから。
1月 13 2022
再度、元初へ―「すべての創造の始めに”分離”が始まった」
以前からどうしても読みたかったハイデガー本をようやくゲット。ハイデガーがプラトンの「洞窟の比喩」について自身の存在論の立場から詳しく語ったもの。高価な本だったので手が出なかったけど、ヌーソロジーサロンのスタートがうまく切れたご褒美としてゲットさせていただきました。
今どき真理なんて言葉を使う人は滅多にいないね。知識人になればなるほど嫌う。ほんとにそれでいいのだろうか。
OCOTとのチャネリングがなかったら、ドゥルーズもハイデガーも多分読まなかっただろうな、という正直な告白(笑)
これからは人間が物となっていく時代。存在はすでにその方向へと舵を切っている。ただ、物への方向は同時に物質の方向への反映も作り出す。それによって人間という領域はなくなり、物の内部方向か、物質の内部方向か、というように意識は二つに分離していく。まずはそのことを意識化することが大事。
分かりやすくいうなら、もう人間の意識での外感覚と内感覚の葛藤の時代は終わり、外の外と、内の内へと分かれていくといった感じだろうか。二つの方向を見極める視力が必要。この両者は似て非なるものなので。
「存在は性起のうちで消滅する」というハイデガーの言葉がある。これは宇宙を生み出した大元の力は、自然を物質として表現した時点で自らは姿を潜めるという意味だ。いわゆる隠れ神のことと言っていい。しかし、これからは逆のことが起こってくる。すなわち―存在者は逆-性起のうちで消滅する。
消滅と言っても決して蒸発して消えてなくなるわけじゃない。存在と存在者とのズレが解消されていくのだ。見るものと見られているものの融合が起こりだすと考えるといい。OCOT情報はそのような世界を支配する力のことを「無核質」と呼んでいる。例によって、超クール(笑)
ハイデガーが”真理”と呼んでいるものは、この「無核質」に対応している感じがする。彼の言葉で言うなら、アレーテイア(非隠蔽性)というやつだ。もはや隠されていない……存在が露わに姿を表すということ。世界の隠れなさ。
普通は、「何言ってんだ、お前、世界は隠れてなんかいないじゃないか。ちゃんと目の前にありありと現れているじゃないか」と思うだろう。確かに、対象としてはそうだ。ハイデガーがいう非隠蔽性とは、それが対象知ではなく、自己知として見えている状態のことを指していると考えるといい。
要は、世界とは自己自身なのだ。しかし、それが対象として見えている限り、それは隠れている。隠されている。そういうことだ。
世界を対象知から自己知へと変えていくために、私たちはどのような思考を作り出せばいいのだろうか。残念ながらハイデガーは問題指摘をしただけで、その具体的な方法は示していない。それは時の問題であるかのような言い方をしているだけた。この辺りは仏教の正法、像法、末法という考え方に近い。
ヌース的に言えば、正法とは感性の時代(原始土地機械)、像法とは思形の時代(専制君主機械)、末法とは中性質の時代(資本主義機械)という感じか。日蓮なんかは末法は万年続くと言ってるが、OCOT情報は再び、正法を生み出した世界に戻ると言う。ハイデガーはそれを”別の原初”って呼んでる。/()内はドゥルーズ=ガタリの用語。
世界が対象に見えないようになるためには、見ている自分と見られているものが一つにならないといけない。時間と空間の中で存在者をイメージしている限り、それは不可能だ。だから、別の原初への欲望を持った思考はまず、この時間と空間から出ることを決意する。
下挿絵 /「エヴァの創造」ミケランジェロ
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ハイデガー, プラトン, 中性質