9月 1 2017
ロゴスの変質に向けて——理性によって理性を解体するために
物理学は物質の究極にたどり着いた結果、そこに精神、つまり観測者自身の持続(虚的なもの)を見るに至った——まぁ、これがヌース的思考の出発点を意味するのだけど、にもかかわらず、その方向への思考の侵入を頑なに拒んでいるのが時間と空間という延長(伸す=ノス)の力だと思うといい。
精神の本性は持続にあるが、人間においてはこの持続が空間(延長)に従属しているために線的にイメージされてしまう。それがわたしたちが時間と呼んでいるものだと考えるといい。奥行き=精神が横に向いてしまい、ベルクソンの言い方を借りるなら無限に弛緩しているということ。
こうした流れる時間の世界と流れない時間の世界の協働によって、わたしたちは時間の流れを感じているわけだが、こうした構造を目の前の空間上にエーテル知覚として文字どおり描像していくことが高次元認識の土台を作っていく。そして、それが実際、SU(2)(非局所性としての複素2次元空間における回転)の描像であったりするわけだ。
空間を奥行きで構成し始めると、空間が実に多様なカタチで編まれているのが分かってくる。すべては始まりに自己と他者における奥行きと幅という捻れの関係があるからだ(この捩れ関係が本当は自他世界の差異を担保している)。この差異が成長していく空間は「何もないカラッポの空間」という従来型の延長空間のイメージとは大違いで、精神による次元の無限の拡張運動が展開する世界によっている。
物質の内部から見た内部世界のことだ。
本当は、こうした世界を霊的世界と呼ぶのが正しい。
永遠の相のもとに思考する——ということは過去の哲学が何度も訴えてきたことなのだけど、それは常に詩的イメージや抽象的な哲学用語の中でのトライアルだった。従来の時間と空間に変質を与えるまでには至らなかったのだ。
しかし、奥行きの差異化によって出現してくる持続の幾何学の思考は全く性格を異にする。それはダイレクトに時間と空間(人間の意識の形式)を解体させる力を持っているような気がする。理性が理性自身の力によって理性を乗り越える。たぶんロゴスのこうした変質をヌースと呼んでいいのだろうと思う。
11月 8 2022
物質が先か(唯物論)、意識が先か(唯心論)という議論はもう古い
根本さんが紹介してくれていた、トランスヒューマニズム系の研究者方の意識に関する議論。
僕にはどうしても、こういう方々の議論は、問いの立て方が根底から間違っているように思えて仕方ない。
物質からどのようにして意識が生まれるのか。もしくは意識からどのようにして物質が生まれるのか。イデア的観点からするなら、これらはどちらも正しい問い立てのように思えない。物質と精神は同じものの二つの側面であり、その意味で、その発生も同時的なものと考えないといけないように思う。つまり・・・
素粒子とともに意識は生まれている——ということだ。
存在の転倒は秘教的伝統の基本だ。イデアとロゴスという相補的な関係がまるまる転倒したところに存在者の世界が生まれている。本来的世界はイデア→ロゴスという順に生成が進むのだが、人間の世界はロゴス→イデアというように両者の関係がひっくり返っている。
つまりは、言葉の世界が先行して、見ることが後追いになっているということだ。これもまたヌーソロジーがいつも言っている「他者-構造」がもたらしている効果と言っていい。
そして、このロゴスからイデアへと方向付けられたところに現存在としての人間の意識の場が生じている。素粒子とはこのイデアに方向付けられた場の別称である。
人間が持った言語で素粒子の世界を描像できないのも、こうしたロゴス的場とイデア的場の間に絶対的な差異が介在しているからだと考えるといい。
つまり、差異の思考が開始されない限り、意識とは何かは分からない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 03_動画 • 0 • Tags: イデア, ロゴス, 素粒子