2月 10 2021
「家」に籠るということ
2020年4月7日に政府より緊急事態宣言が発令され、主に大都市を中心に、住民への不要不急の外出の自粛要請や、施設の使用停止、イベントの開催制限の要請・指示など私権の制限を伴う措置が取られた。
深刻度がほとんど伝わらない政府のアピールも手伝ってか、接触を最低7~8割減らし感染拡大を防ぎたい意向が、実際には、5割程度の効果しか出ていないという報道も見られる。どちらも日本人らしいと言えば、まぁ、それまでだが。。
それにしても、仕事や重要な用事がある人は別にして、人はどうしてこうも外に出たがるのだろうか。
子供や若者ならまだ分かるが、いい年したオッサン、オバサンまでが大した用事があるわけでもないのに、いざ休みとなると外出したがる。否、まるで「外出しなくてはいけない」といった強迫観念に駆られたように、街へと繰り出す。
僕の場合、昔から、ヌースの活動と会社への通勤以外、ほとんど外に出ることはない。
まぁ、子供もいないし、嫁さんも同じインドアタイプということで、夫婦関係に支障が出ることもなく、おかげさまで平穏無事に家庭生活ができている(笑)。早い話、最初っから「家」好きなのだ。
当然、社会人としても生きているわけだから、人付き合いや冠婚葬祭等など、様々な用件で外出しなければいけないこともあるが、家に戻ってくると、いつもほっとする。
おそらく、このメルマガを読んでくれている多くの皆さんもそういう人種ではないか。
家から外に出るとき、そこでは意識の場の反転が起こっている。
ヌースの言葉でいうなら、人間の外面の意識から内面の意識へ、より正確に言えば、感性空間から思形空間への反転が起きている。(自然豊かな田舎に出る場合は別)
生活においても、意識は外と内の間で呼吸しているわけだ。
私たちが家に帰るとほっとするのは、自分の本性にぐっと近づくからでもある。
こうした住処としての「家」について、独自の哲学を語った人物がいる。
エマニュエル・レヴィナスという哲学者だ。
この人、まぁ、難解極まりない哲学を展開した人なのだが、フッサールの現象学から自我意識の向こう側について徹底的に思考し、ハイデガーの存在論から良心的部分だけを抜き取って、そこに独自の他者論を練り上げた、倫理的形而上学の哲学者として有名だ。
レヴィナスが「家」と呼ぶものは、魂が帰るべき場所と言っていいかもしれない。レヴィナスはそうした家があるからこそ世界の存立が可能になっていると言う。
そして、その家に帰ったとき、そこには「女なるもの」が待っているのだとも言う。
僕もこの「女なるもの」という言葉をよくレクチャーなんが使っているのだが(ラカンやドゥルーズなどフランスの現代思想系の思想家は頻繁に使用する)、この「女」は、実は、人間の性別としての「女」とはほとんど関係がない。
存在の母胎、存在の子宮と言ったような意味で使っているのだが、レヴィナスのいう「女性」もそういう意味だ。
ユダヤ人でもあるレヴィナスの哲学は、ユダヤ神秘主義の「カバラ」に強い影響を受けていて、僕なんかは、カバラの哲学版と言っても過言ではないと思う。
もちろん、ここでいう「カバラ」とは、スピ系でよく見るカバラ占いなどのクリスチャンカバラの系統ではなく、『奥行きの子供たち』でも紹介した、近代ヘブライカバラとしてのルーリアカバラのことだ。
ルーリアカバラについては『奥行きの子供たち』に簡単に書いたので、そちらを参照して欲しいが、そのポイントは、創造のために神が最初に行った行為とは「世界から撤退する」ということにある。
そして、その世界からの撤退にあたって、神は自分自身の内部へ「縮んだ」「収縮した」のだという。
これは、旧約聖書なんかに書いてある、「光あれ!」という神の号令とはかなりニュアンスが違うのが分かるはずだ。
「光あれ!」はどちらかというと、膨張、拡張のイメージだ。
つまり、ルーリアカバラの神は世界の創造に当たって、膨張といった男性態としての神から、収縮という女性態としての神へと性転換を遂げるのだ。
そして、この女性態としての神のことを「シェキナー」と呼び、そこに、「神の花嫁」や「神の住居」と言ったような意味を持たせる。
まぁ、ここまで、書けば、ヌーソロジーと被るイメージを持つ人も多いだろう。
奥行き、収縮、純粋持続、そして、素粒子。。。
我が家に戻り、家に籠るということ。
それは自分の内的な世界に眼差しを向けるということでもある。
このようなご時世になって、「オレたちの時代が来たぁ~!!」と言って喜んでいる、引きこもり系の人たちがたくさんいるらしいが、神の住居としての「家に籠る」のと、引きこもりとは全く意味合いが違う。
魂が自分自身の家の存在を知ることは、「引きこもり」というよりは「押しこもり」と言った方が良い(笑)。
このような状況がいつまで続くのかは不透明だが、この際、家に籠らせられていると考えるのではなく、「自ら家に籠っている」という意思を持って、ルーリアカバラがいうところの「神の収縮」と、ヌーソロジーのいう奥行きの収縮とのただならぬ関係等について、色々と思いを馳せててみるのもいいのではないだろうか。
※この記事を読んで少しでもレヴィナスの思想に興味が出た方は、この本がオススメです。
『レヴィナスと愛の現象学』内田樹 著
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
11月 28 2022
素粒子とアリアドネの糸
facebookで以前から拝見していて面白い人だなぁと思っている市田良夫さん。ありがたいことに、その市田さんがヌーソロジーにも関心を持ってくれ、Twitterにレスポンスがあった。
市田さんは、量子力学など理系の知識にも精通されている方だけど、一方で仏教やヨガなど、東洋の叡智にもお詳しい。レスをしているうち”外の思考(フーコー )”という言葉が頭に浮かび、そのままつらつらと、この”外の思考”の在り方についてつぶやいた。この”外の思考”というのが、ヌースのことでもあるんだけどね。
以下、そのつぶやき。
空間は持続と延長という二つの性からなっている。今の私たちは延長でしか空間を見ることができず、持続としての空間を無視している。
「人間の意識は幅で空間を見ているだけで、奥行きを見ていない」と言ってるのも、その意味だ。
奥行きは持続のことでもあるので、これは自己の根底に息づいている主体自身と言っていいものだ。Sに「 / 」。ハイデガー―ラカン由来の消された存在、消された主体の意味がここにある。
幅で支配された空間にとって、奥行きは差異である。いや、より正確に言うなら、幅が先行する空間知覚と奥行きが先行する空間知覚の間を繋ぐ差異として奥行きは働いている。もちろん、私たちの場合、奥行きが先行する空間知覚は完全に無意識化している。
この差異を端的に表現してるのが位置と運動量の交換関係px-xp=i ħだと考えると面白い。x=幅で、p=奥行きだ。この「 i (虚数単位)」が文字通り「 I =アイ」として失われた主体の数学的表現となっているわけだ。今の私たちは幅が先行してxp-px= -i ħとなり「 i 」が負の方向を向いて、他者化している。
目の前に実数直線(幅)を見るとき、奥行きはどこにあるのか。少し考えれば、それはすぐにわかる。原点として無意識化している。この奥行きが意識化されれば、幅は逆に奥行きに従属し、空間は虚数軸が作る点次元の方へと位置を移動する。そこに複素空間としての内包空間が息づいている。
ヌーソロジーが「私たちは物の中にいる」とアジテートするのも、こうした内包の場へと意識の位置を移動させたいからだ。この認識が生まれれば、見えている世界そのものが物の内部へと丸ごとワープする。つまり、物の外部にいると同時に物の内部にいるという例のバイスペイシャルな感覚が生み出される。
外部/内部という二項対立の外にある思考、つまり”外の思考”は、このようなバイスペイシャルな空間思考として到来してくる。
そのような”外の思考”に憑依された者にとって、現代物理学が見出した素粒子の構造は、人間という迷宮から出ていくためのアリアドネの糸に見えてくる。
さて、市田さんだけどYoutubeも始められている。本当に博識で、ユニークな方。話もとてもわかりやすい。第一回目のタイトルが「マルチョンとは何か」。きてるよね、ホント。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ハイデガー, フーコー, ラカン, 素粒子