3月 28 2018
微分化された空間の先にあるもの
微分とは何だろう。学校では「瞬間的な変化の割合を求めるための方法」などと習ったけど、これは延長的な見方で本質を言い当てていない。ニュートン的だ。ライプニッツは、そこに「延長以外の何物かかがある」と直観していた。そして、この何物かに延長的なものの起源があると考えていた。
つまり、無限小の中に延長的なものの産出原理があると睨んでいたわけだ。この直観が晩年のモナドの思想へと結びついていく。つまり、無限小の世界には、決してそれ以上分割できない物質の大元となるものが眠っていて、それが精神(霊魂)だと。
「物質が物質によって作られる」ということは論理的にあり得ない。それだと、作られたものと作るものの差異がないからだ。物質だけなら、どこまでも、作られたものの連鎖が続くだけで、肝心の作るものが現れてこない。
だから、ライプニッツは考えた。物質はその根底で必ず分割不能なものに出会う——そして、彼はそれをモナドと呼んだ。
そして、ライプニッツが予感した通り、現代の物理学は物質の根底に分割不能な、というより、もはや延長的な物質とはその性質が根本的に異なる存在を発見した。それが素粒子だった、というわけだ。
物質と素粒子の間には延長と内包という意味で絶対的な差異がある。この差異の本質は、ライプニッツ風に言うなら、産出されるものと産出するものとの差異だ。つまり、素粒子は作られたものではなく、作るものだということ。何を?—もちろん、物質を。ということになる。
物理学の素粒子理論はほんとに素晴らしいものだと思うが、追いついていないのは、そのイメージの方だ。物理学者のほとんどは、相も変わらず、素粒子を物質と同じイメージ、つまり、作られたもののイメージで見てしまっている。粒子であれ、ヒモであれ、同じこと。
だから、ビッグバンから宇宙が始まって云々・・・といった、例のあのお決まりの、見る者がどこにもいないにも関わらず、あたかも誰かが見ていたようにしてしか描けない、奇妙奇天烈な宇宙創生の歴史の物語が生まれてしまう。内包性がもぬけの殻なんだよね。
素粒子が物質を作り出すものだとすれば、作り出すもの側から創造を見ないと正しい宇宙の歴史は見えないのは当たり前。この部分を僕らは是正しないといけない。でないと、せっかくのこれまでの科学的成果が、ありもしない幻想の中に人間を閉じ込めてしまうことになる。これほどもったいない話はないよ。
外在世界における素粒子の登場は、「実は宇宙というのはすべて内在だよ」ということを告げるサインじゃないかな。あとは、素粒子に対するイメージ(描像)なんだよ。想像力とも言っていい。それが生まれてくれば、僕らを苦しめていた超越的なものは退散し、人間が正しく宇宙を見れる時代がやってくる。
そう思うんだけどね。
6月 15 2018
〈精神化した自然〉への逆ビッグバンを!
自分と自然を一つの全体とみなせるような思考を作り出すためには、理念なるものがいかに生きて活動しているのか、それを感じ取れるような新しい知覚を生み出さなくてはならない。その知覚においては、思考は主観的であると同時に客観的でもあるような場所に出る。つまり、「見ること」が同時に「見られるもの」となっているような場所が開くということだ。その場所において、わたしたちは初めて「ある」と「いる」から逃れた「なる」の世界風景に出会うことができるのだ。
このような場所への移行の試みは過去幾度となくされてきた。たとえば、哲学者・大森荘蔵のいう「面体分岐」。大森の言い分に従うなら、見えている世界(面)は内在であり、見られている世界(体)が外在となる。これは、ヌーソロジー的に言うなら、前者は真正の奥行きの世界だが、後者は幅化した奥行きの世界だということに対応している。主体としての光と客体としての光の違いと言い換えるのもいいかもしれない。客体的光は言葉を担い、主体的光は知覚を担っている。実は、ここに「終わりの精神」と「始まりの精神」の連携がある。
この連携をカバラは「ツィムツーム(収縮)」と呼んでいる。神の時空からの撤退。物質化した空間から、精神化した空間への移行のことだ。「モナド化の身振り」と言い換えてもいいだろう。精神化した空間は、必然的に自然の精神化を要請してくる。このとき、光は秒速30万kmで時空を疾走することやめ、結晶化して光のスピンとなる。
量子論に登場するスピンとは、モナド化の発生を表現するものだ。ライプニッツが言うようにモナドには窓がない。ただし、モナドは双子として生み出される。それが光のスピンの固有値±1の意味と考えよう。ただし、モナドは回転の自由度という形で共可能性を球形の鏡の中に映し出す。そこにおいて、他者のモナドの多数性は確率(位相)として現れる。
並行宇宙とは、このときに現れる他者宇宙のことを言っているにすぎない。モナド的感性が欠如した同一性の思考がエヴァレットのような多世界解釈の幻想を作り出す。
モナドは他のモナドを映し込むことによって、また、他のモナドに映り込む。わたしたちが自我と呼んでいるものも、この〈映し-映り込み〉の結果における産物と考える必要がある。わたしに先立って、わたしをわたしたらしめているもの。それが無意識の役割であり、無意識の構造はこうして素粒子のシステムとして自然界における物質の基底に息づいているわけだ。
つまり、「なる」世界においては、人間とは始まりの存在であるということ。このイメージを取り戻そう。この視座の奪回によって、人間は人間であることから解放される。生物学的人間の中に人間のイメージを閉じ込めておく理由などどこにもないのだ。己自身の内圧を高めて、内側から宇宙を破裂させること-。
ヌーソロジーから見ると、人間という存在は、物質化した自然を精神化した自然へと逆ビッグバンさせるために、神々がセットした特異点なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カバラ, ツィムツーム, モナド, ライプニッツ, 大森荘蔵, 素粒子, 量子論