3月 23 2013
半田広宣 講演会 in 京都——その3
~ユダヤ的精神の由来~
「ユダヤ民族とは、現人間次元の核質です。」(OCOT情報)
ヌーソロジーが「ユダヤ的精神」と呼んでいるものがあります。これは単純に、人種や民族の分類的な意味での「ユダヤ人」のことではありません。いわば、ユダヤ民族の精神構造として奥深く根付いている無意識的な潮流としての運動のことを指していると、私は捉えています。
オコツトが告げる民族の発生は違っていて、次のように言っています。
「民族とはヒトの思形が生み出すものです。定質に与えられたノウスの方向。」(OCOT情報)
ヌーソロジー独特の用語が使われていますので、理解するのは容易ではありませんが、そのヒントは、精神分析学者であるフロイトが晩年に著した不思議な著作である『モーセと一神教』にその一端を見ることができるようです。
ユダヤ教はモーセが発明した一神教ですが、彼はそもそもエジプトのイクナートンが作った一神教であるアテン教の一派であり、その一神教をユダヤ人たちに実験したというのです。しかも、そのモーセはユダヤ人たちの手によって殺されたと言いますから、これはなかなか穏やかならぬ内容です。
そもそも古代のエジプトにしろ、ユダヤ周辺にしろ、多神教が主流でした。それがどういうわけかエジプトのアメンホテプ4世の治世(紀元前14世紀半ば頃)のとき、王(ファラオ)自らがアテン神を崇拝し、自らも「イクナートン」を名乗るようになったわけです。彼の作ったアテン教は、世界初の一神教だと言われています。一説には、アメン神を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことを、アメンホテプ4世はよく思っていなかったからだと言います。
この本によれば、このイクナートンのアテン教の流れを汲むモーセが始めたのがユダヤ教だったということだそうです。それまでユダヤ人はある意味多神教世界において自由に生きていましたが、モーセの始めた教えは規律が厳しく、ついにその不満が爆発し、モーセを殺してしまったというわけです。これこそが「原父殺し」の起源となり、超自我的なものを到来させる契機となりました。つまり、この事件こそが、永遠に亡き父に背くこともできずに、支配・被支配の関係を結ぶ原因になったわけです。ある意味、そう仕向けたのはモーセだったのかもしれません。いずれにせよ、この「父と子の契約」こそがユダヤ教の本質だと言います。
旧約聖書の創造神話に、創造の7日目に神に似せて人間を作ったとありますが、そのとき、人間は神から「名づける力」を与えられ、「主」としての権限を与えられたと言います。ユダヤ人たちが、言語に厳しい契約の民と言われる所以もそこにとてもあると言われます。
ユダヤ人たちの世界史における役割は大きなものがあります。銀行を発明し、科学の中の優秀な力をもたらしたのも彼らだと言われます。実際、前述の精神分析のフロイト、経済学のマルクス、物理学のアインシュタインの3人は、よく世界を変えた3人などともてはやされますが、彼らはいずれもユダヤ人だそうです。
なぜユダヤ人たちが、それほど優秀で、それほどの力を持つようになったかと言えば、それは彼ら自身が「流浪の民」として商売や流通に関わる仕事に携わり、早くから「情報のネットワーク」を構築していたからだと言われます。
そのユダヤ民族の根底を流れる無意識の潮流こそ、ヌーソロジーが「ユダヤ的精神」と称する、人類の根源的な「同一性」のことです。実際、ユダヤ教ではヤハウェなる一者としての神が信仰されますが、これこそが「一なる概念」と結びつきます。
今回の講演でkohsenさんが話された話の中で次のように言った言葉が印象的であり、その奥深さを感じました。
「中間の記憶は絶対的な契約の中で忘却される。」
これはまさしく「父と子の契約」を表していると同時に、自己・他者間の視線の交差の際に起きる奥行きの消失をも意味していると思われます。ある意味、自己が持つ視線の奥行きは、他者が持つ視線の、自己側への到達によって、押し潰されているとも言えます。
ヌーソロジーでは、この「父と子の契約」こそが、オリオンとプレアデスの結合によって、この宇宙が生まれているということを示しており、その宇宙全体を「一」にまとめたものこそが「物質」であると言っているのです。これこそが、同時に、「わたしはわたしだ」という自我の起源でもあるわけです。神道的な言い回しで言えば、モトミタマとワケミタマは一つであり同じものだということになるでしょうか。
(つづく)
3月 24 2013
半田広宣 講演会 in 京都——その4
~社会的個と精神的個~
さて、2011年3月11日と言えば、未曾有の被害をもたらし、想定外の事故を引き起こしたと言われる東日本大震災でした。特に、福島第一原子力発電所の事故は、1945年8月6日の広島への原爆投下、1945年8月9日の長崎への原爆投下、1954年3月1日の第五福竜丸事件(水爆実験による被ばく)に続く4度目の被ばくと言われるほどの凄惨な事故でした。ヒロシマ、ナガサキとカタカナ表記されるのと同じように「フクシマ」と書かれるのも、この意味においてです。
この事故を知ったとき、kohsenさんは、ある意味、ついに来たと思ったそうです。ユダヤ的精神は原子力を推進して、平和利用と言いながら、原子力発電所まで生み出しました。その原発がトンデモない事故を起こしたわけです。はじめ、世の中の人は、チェルノイブイリの再来か、とも思いました。kohsenさんが思ったのは、オコツトが言っていた「最終構成の最終構成」というものの到来でした。いよいよ人間の意識がダイナミックに変わる日が来ると思われたのかもしれません。「最終構成の最終構成」とは、無意識構造の意識化であり、魂の知覚とも言えるものだそうです。
しかし、結局、フクシマの最も肝心な真実は闇に隠され、その危険の程度はどこまでなのか、はっきりしたことはいまだにあまり報道されません。震災自体による被害の復旧状況を見てもそうですが、人間の意識が以前にもまして大きく変わったとは思えません。当事者の日本人の意識すらたいして変わっていないように見受けられます。
先ほど述べた人間が持つ「同一性」の構造はまだまだ強いようです。ヌーソロジーで採り上げられる、同一性と差異は、哲学者ドゥルーズの同一性と差異に由来しますが、それは個のレベルにおいて述べるとすれば、「社会的個」と「精神的個」ということになるかと思います。
これは、ヌーソロジーで言う人間の外面と内面に対応します。「社会的個」が人間の内面であり、「精神的個」が人間の外面です。簡単に言えば、社会は言語で作られており、その中で人間は時間に縛られて生きています。これが「社会的個」です。一方、国も名前も性別さえも関係のない、絶対に取り換えの効かないわたしとしての個があります。これが「精神的個」であり、「永遠の個」とも呼ばれます。
よく私たちは多くの個人が集まって国家が出来ているなんて思いますが、これは誤りです。決して、個が集まって国家が作られているのではなく、子を育て巣立っていくために国家があるのだと言います。
社会が個を従属させるための一番のやり方は、個を一つだと思わせるやり方です。「私は一つ」だというわけです。この考え方は、私という存在を一つの中に縛ります。他者は複数なのに、なぜ私は一人なのでしょうか。もし、他者との関係の数だけ、私が存在するとしたら、なぜ私が一人である必要があるのでしょうか。
kohsenさんは、今回の講演の中で、自分は何とか精神的個を開花させる方法を考えていると言いました。つまり、それこそがヌーソロジーだと。kohsenさんは、「社会的個」に対してはあまりにも圧倒的に不利にしか見えないような「精神的個」を、永遠なる個として目覚めさせられることを確信していると言います。そのための方法論の一つが「反転」という概念だそうです。
~反転~
さて、どうやって「反転」という新しい感覚を獲得していくかということですが、それは差異に気づくところから始まります。
まず、私たちの世界は、ヌーソロジーで言うオリオンとプレアデスの結合によってできた同一性の世界であり、それが「時空」です。一方、シリウスとは、差異が同一性を抑え込む世界です。
その時空から差異として出ているのがハイデガーの言う「現存在」です。したがって、自らが現存在として立ち、そこを創造の現場へと変えて行くことこそ、私たちが歩むべき道だというわけです。実際、時空から半分はみ出している方向がシリウスだそうです。
果たして私たちが「生きて経験している」ことを一体何が見ているというのでしょうか。それこそが「死」なのだと言います。つまり、言い換えれば、「死」がわれわれの「生」を経験しているというわけです。それは、霊が経験していると言ってもいいでしょう。
では、反転意識は何を出現させるのか、ということです。
ヌーソロジーによれば、私たちの精神が作る幾何学というのは、複素空間として表現できると言います。それは象徴的な記号としては、マルジュウで表現できるそうです。実軸を横軸とし、虚軸を縦軸と見立てた複素数平面からなる空間です。私たちは、他者の視線を借りて、世界を幅として見ており、本当の奥行きは見ていないとのことです。この本当の奥行きこそ、自己の視線が作り上げている空間であり、虚軸に対応するようです。つまり、私たちが「見ている」と思っている空間は、実は他者によって「見られている」ことによって作られた空間であり、自己が「見ている」空間ではないということです。
このことに気付くことから、世界の反転が始まります。私たちは時空と呼ばれるモノの内部に閉じ込められており、そのことに気付いたとき、「見られている」空間から、「見ている」空間への移行が始まります。他者の視線によって作られた「幅」の空間から、自己の視線によって作られていく「奥行き」の空間へ。そのとき、物質は「マリア・マテリア」となるというわけです。それがシリウスの世界風景だそうです。
「奥行きには持続がある。過去があるから、現在があるという感覚がある。」
今回のkohsenさんの講演会では、どちらかと言えば、ヌースの構造論ではなく、むしろ、ヌースの理念や精神といったものに注目したお話でした。特に「悟りをした者に名はない」と言われたkohsenさんの言葉が印象的でした。
とりあえず、初日3月16日の半田広宣2013講演会in京都の内容は、以上のようなお話でした。
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Φさん、どうもありがとうございました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: オリオン, ドゥルーズ, ハイデガー, プレアデス, ユダヤ, 内面と外面, 原発問題