11月 30 2018
トランスヒューマニズムでなく、トランスフォーマリズムを!!
最近、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』という本を読み直している(カンタンという人が書いた割には決してカンタンな本じゃない。哲学本をあまり読まない人は買っても積ん読になる可能性大なので、ネット上の記事で十分)。
ヌーソロジーがメイヤスーにこだわっているのは、今まで哲学がなあなあにしていた科学的世界観と人間の意識の関係を、「物自体」に関する議論に集約させて見せたことにかなりエキサイティングなものを感じたからなんだけど、今回読み直していて、哲学にもそれこそ最終構成の息がかかってきているのをヒシヒシと感じた。
メイヤスーにとって物自体とは数学に内在する能力と深く関係している。つまり、人間はおろか、まだ生物さえ存在していなかった世界についての記述をどうして数学は可能にするのか、という問題を立て、言ってみれば、数学のイデア性に対してダイレクトに切り込んでいるわけだ。
思弁的唯物論の「思弁」とは、経験によることなく、思考や論理にのみに基づくことを言うが、メイヤスーにとって、そうした数学的観念こそが実在の名に値するものだということになる。数学を「経験」の内に含むか含まないかという厄介な問題はあるが。
これは、祖先以前性といった茫洋とした世界を出さなくとも、現実の今現在の世界だってそうだ。科学が行き着いた物質の根底は複素数で記述される数学的観念である。その意味では素粒子からなるすべての物質は数学的観念の塊であるとも言える。おいおい、物自体とは数学なのかよ?
哲学までもがこういう状況なのだから、世界がいかに危うい状況にまで達してきているのかが分かる。ヘタすると、思弁的唯物論は、世界をすべて数学的データに還元して思考するトランスヒューマニストたちの哲学的信条となる可能性もあるわけだ。そして、この両者は、その背後にともに神の到来の思想をチラつかせている。
ヌーソロジーのヌースとはもともと「神的知性」の意味を持つが、これは「物自体」と同じ意味でもある。OCOT情報では数学は精神の骨のようなもの。そのままでは神の骸骨にすぎない。
だから、メイヤスーの神の到来の予感が正しいものだとしても、それでやってくるのは髑髏の顔を持った神なんじゃないかと思う。骸骨が美しい身体を纏うためには、数学だけではダメだ。数学以外の何かが必要。それは数学自体を反転させたものと言えるのかもしれない。
トランスヒューマニズムに対してトランスフォーマニズムを対峙させていくのがヌーソロジーということになるだろう。意識形態自体の変換を!!
1月 22 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 6
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説6回目(最終回)。
・人間の脱中心化における二つの方向について
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(半田パート)
科学的な認識の最大の誤謬は、自然界の中に見られる多様な現象があたかも被造物の歴史の中で作り出されたかのように錯覚していることです。p.306
シュタイナー本には書かなかったけれど、この問題を改めて思想のテーブルにあげたのがメイヤスーの「祖先以前性」に関する議論だね。人間が登場する以前の世界について人間はどう考えればよいのかという問題。科学は物的証拠からその世界について、あたかもそこに居合わせたかのように語るわけだけど。
果たしてそれは本当なのか。ここには物質が先か、精神が先かという伝統的な哲学的難問が顔を出してくる。哲学者は科学的な言明はあくまでも間主観的な判断と見なして、相関主義的立ち位置を崩さない。その曖昧さにツッコミを入れたのがメイヤスー。「46億年前に地球が形成された。」のは本当か嘘か?
ヌーソロジーから言わせてもらうなら、この選択は哲学者にとっての踏み絵と言っていいものじゃないかね。そんな言明は「嘘っぱちだ!」と言わないとダメだよ。言えなければ哲学者じゃないし、哲学の存在意義もなくなっちゃう。
メイヤスーは、哲学は相関主義(現象と人間の思考は表裏一体でくっついてるとする考え方)から脱してコぺルニクス的な脱中心化に対して忠実であるべきだ(「本質を外に見ろ」ということ)とハッパをかけてくるんだけど、この脱中心化の方向に物質と精神の二つの方向があることに気づいていない。それこそ、これはシュタイナーが言ったことでもあるんだけどね。
「ある現象領域の本質とそもそもかかわりのない思考パターンにとらわれていたなら、あらゆる知識を総動員したとしてもうまくいくはずがない。たとえばそのようなことは、太陽に生起している事象の中へ地球空間の理念をそのまま持ち込もうとするようなときに起こる。」―『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.484
地球が中心ではなく太陽が中心になったこと、それはそれでいい。しかし、メイヤスーのいうコペルニクス的転回(科学的思弁への移行)のイメージは、単に地球空間の理念をそのまま太陽空間の理念に引き写しただけで、太陽さえも物質的な世界として映し見ている。
カントのコペルニクス的転回(主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うとする、従来の考え方に対する反転した考え方)をプトレマイオス的反転と揶揄するメイヤスーは、カントが産み出した超越論的哲学が精神の方向への脱中心化の萌芽であることを見抜けていない。シュタイナーの表現で言うなら、カントの「超越論的」という概念は「太陽空間の理念」を発現させるための礎石となるものだ。
その意味で言うなら、近代に起きたコペルニクス転回は人間の意識の位置を、物質と精神という、それぞれの方向へと方向づけるための出来事だったのだと言っていいように思う。
そして、今や近代も終わり、この方向づけがある種の実体として出現し始めている。それがコンピュータとヌーソロジーなのだろうと考えている。
脱中心化の位置として、太陽が中心化されるのはいい。しかし、問題はそれが物質的太陽か、霊的太陽かということだ。両者はまったく正反対の方向を持っている。この鏡映感覚を注意深く育てていくこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, シュタイナー, シュタイナー思想とヌーソロジー, メイヤスー