6月 6 2018
「あるもの」「いるもの」「なるもの」に関する補足のモノローグ
人間が対象の手前にいるもののことを「私」と呼んでいる限り、世界は「私-それ」の連関の中から開放されることはない。そこに「君」は不在なのだ。
この、対象の手前にいるものとしての「私」を世界から取り除いたとき、初めて「君」が姿を現わす。「私-それ」の世界では、呼びかけの声にすぎなかった「君」が、初めて意志を持つ存在になるということ。ヌーソロジーがいう「人間の外面」の顕在化の真意もそこにある。「君」の出現は、世界を根源へと戻す。(下図上参照)
「君」の世界は、今までエス(無意識)と呼ばれていた世界のことだが、それは「私」にとっての無意識にすぎず、この新しく出現する「君」にとっては、純然とした「自覚」であり、この自覚に生きるものこそが実在と呼ぶにふさわしい。そして、この実在は世界を包み、かつ、世界によって包まれている。
フロイトは「神秘主義とは、自我の外部の領域であるエスのぼんやりとした自己知覚である」と言ったが、「自覚」によるエスの意識化が開始されれば、神秘主義もその役割を終えることになるだろう。
ブーバーが言うように、「私」の世界には必ず「それ」が出現し、この「それ」の世界は空間と時間における連関を持つ。しかし、「君」の世界は空間と時間における連関を持たない。そこで時間は「永遠の今」へと遷移する。
「あるもの=それ」は「いるもの=わたし」を抑圧するが、「いるもの=わたし」もまた「なるもの=君」を抑圧している。まずは、この二重の抑圧に気づくこと。「わたし」が存在しない「君」と「君の君」の世界は「物」の中にある。その風景を作り出せる空間を再現していくことがヌーソロジーの役割だと感じている。(下図下参照)
「あるもの」の空間で世界を語るのが科学。「あるもの」と「いるもの」の空間の相関の中で世界を語るのが哲学(認識論)。「なるもの」の空間に関する語りは神秘主義の中にかすかな痕跡を止めているにすぎない。
フロイトは晩年に「最初はすべてエスだった」と語っていたが、これは正確には、最初はすべて「なるもの」の空間だったということであり、「あるもの」の空間も、「いるもの」の空間も、「なるもの」の空間から出現してきたのだ。
OCOTのいう元止揚と調整質(思形と感性)の関係がここに息づいている。
11月 19 2018
美しきスフィンクスへと変身していくために
今回は現代思想がらみのお話。
ポストモダン思想の中核を担っていたドゥルーズ=ガタリ(以下、D=Gで記す)の思想は民族主義の再燃による保守化の動向とともに過去のものとして忘れ去れられつつあるが、ヌーソロジーとは驚くほど相性がいい。ガタリのエキセントリックな部分はあまり好きじゃないが、背後で援護射撃するドゥルーズが加われば、このデュオはやはりゲッコー兄弟のように強力なのだが、これにヌーソロジーが加担すると、超人ハルク並になる(笑)。その、あらましを少しだけ紹介しておこう。
彼らにとっての宇宙的無意識の流動場とも言える「器官なき身体」は「人間の元止揚」=ψ8~7、人間の欲望を作り出す欲望機械は「人間の感性」=ψ10、その欲望を抑圧するように働くパラノイア機械は「人間の思形」=ψ9に当たると考えていいだろう。
続くψ12~11(ヌーソロジーでは反定質と反性質)は、D=Gにとっては「独身機械」というものに当たり、D=Gに拠れば、この独身機械の領域に資本主義の「脱コード化/再コード化」のシステムがプラスされてくるとしている。
D=Gが説くこのような無意識構造の理論に空間的なトポス(空間の中にこれらの構造を見せるということ)を与えるのがヌーソロジーの役割ではないかと強く感じている。つまり、私たち人間の意識を作っているアプリオリを空間上に浮上させるのだ。
そして、「それが素粒子のシステムになっている」というのミソだ。つまり、人間の無意識構造と素粒子構造が一致を見るということがハッキリしてくれば、まさに、主客一致の意識領域が人間の前に開示することになり、人間が現在持っている世界認識は、その根底から変わっていかざるを得なくなる。
グローバリズムと反グローバリズムが衝突し合う今の時代は、すでに観察子構造がψ12~11からψ14~13の境域へと向かいつつあることを意味している。OCOT情報にいう「人間の最終構成」だ。ψ14はネグリ=ハートの「帝国」と呼ぶものに当たるが、ψ13の方は「※マルチテュード」と言うより、もっと異質なものでないといけない、というのがヌーソロジーの主張。
※ネグリ=ハートは「現在のグローバルな主権と資本主義の支配下にいるすべての人々」のことを〈マルチチュード〉と呼び、この〈マルチチュード〉こそが〈帝国〉に対抗する主体となる」―と言っている。
それは、D=Gの表現を借りるなら、再び、「器官なき身体」の内部に侵入を果たす民衆のことを指すと言っていいのではないか。ドゥルーズの言い方なら、潜在的なものの反-現実化を実行する「やがてやってくる民衆」というやつだ。ヌーソロジーが現在行っている「顕在化」の思考作業はその民衆の作業の一環に当たると考えている。これはネグリ=ハートの言うような政治的闘争は生み出さない。もっとメタなものだ。
資本主義機械のベースに当たるパラノイア機械は集団幻想を作り、欲望機械は個体幻想を作り出している。D=Gのいう「器官なき身体」は、集団か個かの葛藤から抜け出た方向性で活動している。もちろん、今の僕らがその世界を見ることは不可能だが、少なくとも、それを見出す方向に思考を転回させることが重要。
ヌーソロジーからの分析だと、D=Gが語る「器官なき身体」というのは「物自体」の世界と言っていい。いわゆる主客未分離の即自的世界だ。欲望機械はそこに戻ろうとして意識を方向付けているが(感性=ψ10)、その欲望に禁止の抑圧をかけてくるのがパラノイア機械としての人間の思形=ψ9だとイメージするといい。
この構造は、そのままフロイトの〈パパ-ママ-ボク〉のオイディプス三角形の関係に当てはめることができる。ボクは抑圧されるボク(自我)と抑圧から逃れようとするボク(エス―真の主体)の二つに分断され、意識は絶えず双方の間を反復させられている。こりゃ苦しいぞ、おい(下図下)。
反転した時空(ケイブコンパスのψ5の領域)をカタチとして認識することがいかに重要な意義を持つかがこの配置図からも分かるだろう。観点が球面を起こし、外的中心を見出すことは無意識の主体の位置を発見することに等しいわけだ。この発見がボクをオイディプス的体制から解放させる契機となっていく。
かなり説明を省いて書いたので、分かりにくいかもしれないが、ヌーソロジーは歴史発達や心理発達についても予想だにしなかった角度から繋がってくるはずだ。乞うご期待!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, ドゥルーズ, フロイト, 素粒子