5月 23 2023
主観から客観を構成できたとき、 初めて宇宙は 「わたしたち」と呼べるようになる
ヌーソロジーの考え方だと物質は時空に対して直立していく方向に空間自身を織り重ねながら層をなして生成されていくのだが、その土台を担っているのが持続空間を集約させている一本の線分のよう存在で、物理学ではスピノルという数学的オブジェクトととして表現される。
このスピノル、物理学の世界だけても、ユークリッドスピノルとか、ワイルスピノル、ディラックスピノルというように種類があって、それぞれの観察子への対応がまだまだはっきりしていない。ヌーソロジー仲間のΦさんが昔からツッコミを入れてくるのもこの部分だ(笑)
おそらくヌーソロジーのいう「人間の元止揚(Ψ1〜8)」まではユークリッドスピノルで事足りる。しかし、Ψ9以上の領域になると、そこで時間が生成してくるために存在が外に開く。そこでスピノルがワイルスピノルやディラックスピノルに変化するのだろう。物理学的に言えば相対論的場となるということ。
イメージとしては、一つの物の周りに無数の観測者の位置が生まれ、そこに生じている視線の変換がワイルスピノル臭い。Ψ9〜10とΨ*3〜4が重畳する領域だ。ワイルスピノルは質量が0の光子やグルーオンのスピン1の角運動量に対応している。Ψ*9〜10とΨ3〜4の重畳を考慮すれば、ワイルスピノルのイメージだ。
一つの物の周りに無数の観測者の位置が生まれ、そこに生じている視線の変換は、時空上ではローレンツ変換と呼ばれている変換に対応している。ざっくり言えば、私たちの外的な客観性を担保している構造を作ってる空間構造と言っていいい
ローレンツ変換を群で表現するとSO(3)×R^3。一つの物がS0(3)で、その周囲の空間をR^3と考えれば、「一つの物の周りに無数の観測者の位置が生まれ、そこに生じている視線の変換」というイメージとピッタリと重なり合うことがわかるはずだ(下図参照)。
こうした空間構成の言わば平方根のようなものにあたるのが、ワイルスピノルやディラックスピノルの変換場となるSL(2,C)という群になる。SU(2)に4次元性を与えたものと言っていい。SU(2)はSO(3)のダブルカバー(二重被覆)だが、SL(2,C)の方はSO(1,3)のダブルカバーとなる。
あくまでも比喩としてだけど、スピノルを3次元ベクトルの平方根のようなものとして考えるなら、ワイルスピノルやディラックスピノルは時空ベクトルの平方根のようなものに相当しているということだ。ヌーソロジーの文脈からすれば、自己と他者の主観空間に客観のそれらを振り分けたものにすぎない。
いずれにしろ、Ψ9〜10以降の観察子の物理学との対応は一気に複雑さを増す。それもこれも、空間構造の重畳がさまざまな組み合わせを要請してくるからだ。Ψ11〜12までの構造を物理学と正確に対応させていくためには、まだまだ時間がかかりそうだ。OCOTのいう通り、あと2年ぐらいはかかるのだろう。
今、私たちが経験している時空を自己と他者固有の空間へと分離させたものが素粒子空間であるということの意味がかなり皆さんにもイメージできてきたのではないか。そのそれぞれの固有の空間、当然これは持続空間になるのだが、その中で私たちの意識は自己意識として構造化されているのである。
まだ「客観が主観に従属する」というカントが発想した超越論哲学の不文律を現代哲学の思考はまだ完全に遂行できていない。20世紀になってフッサールの現象学やハイデガーの存在論がそれに挑んだが、まだ道半ばだ。存在の根底からそれを決行していくこと。それがヌーソロジーの試みなのだろうと思う。
主観から客観を構成できたとき、 初めて宇宙は 「わたしたち」と呼べるようになる。
9月 18 2024
ケイブコンパスが表現しようとしているもの
人間の意識の構造を示すためのモデルの一つとして、ヌーソロジーでは「ケイブコンパス」というダイアグラムを用いている。これは例えて言うなら、無意識の海を航海していくための羅針盤のようなものだ。
人間の認識は現象世界が顕わになったところからスタートしている。フッサールがいう非本来的現出というやつだ。
その意味で、人間は本来的な現出というものを知らない。世界がどうやって目の前に現れてきたのか、そのことについてはまったくの無知だということ。
一つの事物の知覚においても、それは同じ。それがなぜ「ひとつの事物」の知覚として、目の前で成立しているのかについて考えようとはしない。
それすら知らないのだから、自我がどうして「この私」として知覚されているのか——なんて知る由もない。そういう自我は受動的に与えられたものであり、当然、こんな自我は本来的自我とはとても呼べる代物ではない。
そのように、受動的に与えられた回路でグルグルと回って流動しているのが人間の意識というものだと考えるといい。だから、当然のことながら、人間においては、感覚・感情のみならず、思考にしても受動的にグルグルと回されて生産されてくる運命にある。
つまり、能動的で、意思的なものに思えている私たちの思考も、実のところ、非本来的なものにすぎず、そのほとんどは自動機械のように動いているてるってこと。
こうした受動的な意識の流れが、OCOT情報がノスと呼ぶもので、ケイブコンパスでは、赤色の流動で示されている。本来的なものの方がヌースで、こちらは青色で表されている。
人間は赤のノスしか意識化できていない。というか、それが人間の経験的意識なのである。そして、これは青のヌースに支配されている。こちらが無意識だ。
実際は、青のヌースを先手に持った意識が、本来的人間であり、こちらの流れは、本来的現出というものが何かを知っている。つまり、存在と自分が一致しているということだ。
⚫物の内部へと侵入していく知性の時代
とにかく、人間の知性は今、物質の構造の探究から、意識の構造の探究へと向かいつつあります。
しかし、それは同時に、人間が脱人間化して、今まで科学が明らかにしてきた物質の構造へと、人間の意識自身が生成していくことでもあるのです。
人間の意識進化とはそういうものです——とOCOTなら言うでしょう(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, フッサール