3月 4 2021
[宇宙紀の花・三島由紀夫]のご紹介 その2
前々から言ってきたことだけど、ヌーソロジーはアートや芸術の衝動とも深く関わっている。
本来なら、ヌースを音楽や絵画、映像、舞踏等を通して表現したいところだけど、いかんせん、僕の場合、28歳で奥行きの中のメエルシュトレエムの渦に巻き込まれ、その奥底で響くカオスとコスモスが入り混じった声に耳を傾けたため、そこに息づく未知の知性のカタチに魅せられることになってしまった。
この遺跡を何とか発掘できないものか??
そうした動機で、今までヌーソロジーを組み上げてきたので、この快楽から離れることができなくなっている(笑)
思考は必ず図象や言葉を引き連れている。
だから、勢いヌーソロジーも図象と言葉のプレゼンになっている。
説明する言葉や図像は基本的にカッコ悪い、というのが僕の個人的な信条ではあるのだけど、こうした垢抜けない形でも、ヌーソロジーがもしアートにインスピレーションを与えることができるのなら、アーティストになり損ねた僕からすれば、それはそれでとても好ましいものでもある。
ヌーソロジーの芸術観からすれば、芸術とはカタチなきものをカタチにすると同時に、形あるものを形なきものにする作業でもある。
その大前提をしっかりと意識した上で、今回も小池氏の作品の紹介を続けてみよう。
[宇宙紀の花・三島由紀夫20~40](pdfは下のアドレスから見れます)
https://noos-academeia.com/aqua-flat/pdf/cosmos_flower_book_2.pdf
[1]………日本という<超空間>
ヌーソロジーが解釈するオキツカガミとヘツカガミとは、他者と自己それぞれの視野空間のことだ。ヘツ(自己)の見ることは、オキツ(他者)によって見られるところに、そのまま見られるものとしてミクロに入り込んでいる。ここに〈見るものが、同時に見られるものになる〉超空間の原理が隠されている。
神話(「先代旧事本紀」が記す「十種神宝」の伝承)では、この二枚の鏡からイクタマ、マカルガエシノタマ、タルタマ、チカエシノタマという四つのタマが生み出され、そこからオロチノヒレとハチノヒレ、クサグサノモノノヒレ等の流動が起こり、自然世界を律動させるという話になっている。
[2]………日本とは八咫の鏡の秘儀
古神道的イメージとキリスト教的イメージが重なり合うと、普通はトンデモ臭が漂うものだが、小池氏はこともあろうに二枚の鏡の間にイエスキリストの顔を配置している。
キリスト教が古代ミトラ教の「父(ズルワン)と母(ソフィア)と子(ミトラ)」の三位一体を「父と子と聖霊」のそれに歪め、世界の成り立ちから女性性を隠蔽したことは有名な話だ。オキツとヘツいう二枚の鏡は、その意味では父と母の象徴としていいものかもしれない。ヌーソロジーが他者側を男、自己側を女に置くのもその意味だ。ミトラ教的にいうなら、母の受胎はそのままミトラ神の誕生とも言える。キリスト教は致し方なくソフィアを聖母マリアで補完したが、キリスト教が語る救世主イエスキリストとは、このソフィアが受胎するミトラ神の焼き直し的存在に過ぎない。
[3]………ヌース空間の中のブランショの言葉
小池氏はブランショがお好きなようだ。日本ではあまり馴染みのない名前かもしれない。僕はかろうじて詩人の河村悟氏の影響でブランショを数冊呼んだことがある。一般には、バタイユとかと並んで、フランスのひねくれた知識人の一人と見られてる(笑)あと、仲間にクロソフスキーというのもいる。この辺りのメンツはニーチェに痛く影響を受けたフランスの文学者たちと考えるといい。真っ当な世間の中ではニーチェは嫌われる(笑)。何せ、ニーチェにとって世間(一般人)は家畜の群れであり、ルサンチマンを生きがいとした「最後の人間」たちに過ぎない。。まぁ、確かにそうだろうけど、そんなに見下すのもなんだよね(笑)
さて、僕らは何気に「共同体」という言葉を使っているが、自己と他者が「共に存在する」ということは果たしてどういうことなのだろうか。ブランショは、それは「一切の社会的関係の外で生きること」であり、そこにおいては複数の生は絶対的な分離関係にあり、孤高なものだけが真の共同体を作ることができると言ってる。ここには普通、僕らが共同体と呼んでいるものとは全く違った異質な共同体のイメージがある。何せ僕らは社会を共同体と考えているわけだから。さて、さて、そのような共同体とは一体如何なる共同体なんだろうか。
[4]………三島由紀夫の鏡と半田広宣の鏡
見るものは内部へと入り、見られるものは外部へと出る。見るもの同士は内部の中で精神の共同体を作り出し、見られるもの同士は外部で社会的共同体を作る。共同体が共同体である所以は、このような内的な精神的共同体あってこそのものであり、この内なる共同性を忘れてしまえば、通常の外的共同体は強圧的な法と秩序に支配されたサウロンの塔が聳え立つパノプティコンの国にしかならない。今の僕らの社会も確実にこの方向に向かっているように思えるんだけど、どうしたものか。。
[5]………沖津鏡・辺津鏡の秘儀
オキツとヘツ。向かい合った二枚の鏡の間で一体何が起こっているのか。この作品はその出来事の構造をデフォルメした作品と言っていいだろう。ヌーソロジーがラカンから借用した「交合円錐」の図が二つの鏡の間にセットされているのが分かる。
互いに見られることで弛緩していた空間は、互いの「見ること」に気づくことによって収縮を起こす。そこに現れるのが「タマ」だ。このタマは至る所に一つの中心を持つタマ、つまり、絶対的な中心を持って世界に舞い降りるタマとなる。それは「存在」を孕んだタマのことでもあるので、物部神道では「イクタマ」と呼ばれる。それ対して鏡像空間の方は、最初からイクタマが裏返されたコピーにすぎないので「死返玉(マカルガエシノタマ)」と呼ばれる。さて、さて、君はどちらの「タマ」を生きているだろうか?
[6]………日本は八重の國
物部の神器である十神神宝が小池氏のセンスによって美しくデフォルメされレイアウトされている。特にエメラルドグリーンで彩られたヤツカノツルギが美しい。
八咫鏡の中を通過していく光の通路が全て見えたとき、「私」を「私」として固定していたアンカーは外され、意識は一本の柱を翠(みどり)の光として外部に直立させる。それは統合の「九」の働きと呼んでいい何物かだろう。この光の剣を手にした者は、十牛図における「返本還源(へんぽんげんげん)」と同じ境地に立つ。自らが時空となって、精神を外化させるのだ。そのときは、つまり、人間はそこに至って初めて「それがあるところのもの、それがあるとおりのものとして物を存在させること」(ハイデガー)になるわけだ。
[7]………「生命の樹」につながる日本
小池氏はカタカムナのこともご存知のようだ。カタカムナではこのヤツカノツルギの図象はフトマニ図という名で知られている。このフトマニ図に関しては、以前、OCOTに尋ねたとき、次のような応答を返してきている。
●ゲンシヨウに生み出されたタイカのヒョウソウという言い方が良いでしょう。カタチの次元ではなくヒョウソウがコウサをするために表れたものです。この図象を生み出したものたちは人間の意識を持ちながら別の次元をコウサしてまったく逆の方向性からカタチをトーカできるチカラを持っていたということです。
これは、[6]に示したハイデガーの言ってることとほぼ同じ意味だと考えるといい。
[8]………形而上学をイメージに遷移させよ_G.Deleuze
いつも話しているように、ドゥルーズの哲学はヌーソロジーととても相性が良い。ドゥルーズの哲学は一般に「差異の哲学」と呼ばれている。ここで言われる差異とは「存在論的差異」と呼ばれているもののことなのだけど、ドゥルーズはこの存在論的差異について次のように言っている。
―差異は、所与がそれによって与えられる当のものである―『差異について』
例えば、目の前にリンゴがあるとして、そのリンゴ自体がリンゴと差異を持っているということだ。何を言ってるかチンプンカンプンかもしれない(笑)。しかし、こう言い換えるとすぐに分かるはず。リンゴには「リンゴとしてあるもの」と「リンゴをあらしめているもの」とが重なっている。どうだろうか?つまり、あるものは、それをあらしめるものがあるからこそ、あるものとなって現れていると言いたいだけなのだ。この差異を思考しないといけない、とドゥルーズは言ってるわけだ。
ここにシンプルに描かれた事事無礙(悟りの眼から見た存在世界のあり方)の空間は、「あるもの」と「あらしめる」ものの関係が、鏡の論理から生み出されてくることをごくシンプルに表現している。間には自他における〈見る―見られる〉のキアスムが暗躍している。
[9]………イエスキリスト_魚の日
ヌーソロジーでもお馴染みのヴェシカパイセス(魚の浮袋)。水の中から魚を救済する(サルベージする)という意味だ。原始キリスト教ではイエスキリストのシンボルとされていた。ここでいう水とは言葉の世界。魚とは人間の魂の意味のことを言ってると考えるといい。キリスト教のバプテスマの洗礼をイメージするといい。この洗礼は一度、水の中に浸し溺れさせ、そこから引き上げる、という復活の意味を持っている。それは二枚の鏡の出現によって可能になるということを小池氏は示したかったのだろう。
[10]………ニーチェと美
世界はただ美的対象としてしか存在しない―ニーチェのこの言葉には確かに何らかの圧倒されるものがある。自然は決して何かのために利用される物でもなければ、消費されたりする物でもない。ならば、自然はどのような意図を持って、世界として出現したのか。それは自身の美の表現のためである、というのがニーチェの言いたいことなのだろう。そして、この美と人間はどのような関係を結ぶべきなのか。小池作品に貫かれたテーマはここにある。
[11]………境界・鏡界としての<歌>
[12]………歌は純粋持続の方からやってくる
小学生の時に「サウンド・オブ・ミュージック」というミュージカル映画を観た。幼い僕には強烈な体験だった。僕はそれからというもの、ドレミの歌の節で「コは国語の子、シャは社会の社~」とか替え歌を作っては、教室でおチャらけていたのだが(笑)、その時いつも思っていたのは、なぜ、人は歌で喋らないのだろうかということ。喧嘩も言い争いも歌でやればいい。そしたら、それは喧嘩でも言い争いでもなくなるんじゃなかろうか。幼心にそんな会話のあり方を夢見ていた。もちろん、ここで小池氏が語る「歌」は和歌のことだが、普通の歌もまた純粋持続の中に浮遊しているもののように感じる。
[13]………言葉という気味の悪い二重構造
三島由紀夫の感性ってほんとすごい。定家が歌う月からこれだけのことを読み取る透視力というのは一体どこからきているのだろうか。
月は「喪失の厳然たる証拠物件」として出現している______
月の公転軌道は極めて真円に近い。OCOT情報はこれは月の絶対的中立性の現れだと言っていた。絶対的中立性とは二つの精神の等化が生み出す相殺性のこと。すなわち絶対無の息づきのことと言い換えることもできるだろう。月は存在のすべてを携えた存在の過去そのものの姿である。それは新たな存在の未来に向けて生きる、自己の身体のことでもある。無の身体。言葉の凝縮としての身体。
[14]………存在しないものの美学_定家
[15]………神への歩廊を遺している古今の言語
主観と客観が生まれたのは近代になってからでしかない。そのことを現代人は知るべきだ。前近代においては、あくまでも主観も自然のうちにあり、人間は自然の一部として生きていた。そういう世界では、世界を客観的に見る眼差しは存在していなかった。むしろ自然の方が私を客体として眼差すのであり、主体は自然の方に位置していたのだ。近代における主客の逆転。この催眠術から私たちはそろそろ目覚める必要がある。
自然が襞のように多重に織り込まれているように、言語もまた多重な襞を持って生きている。日本語はその意味では最も優美な襞を実装した言語かもしれない。まさに、普遍的ロココ様式とでも呼べるような。。
[16]………三島由紀夫という和歌原理主義
しかしその死(虚軸)は
不在そのものとして
豊饒と自由となり
鏡像に絢爛を開闘する_______
小池氏のテキスト、躍動しているね。言うことなし。
[17]………ロココという絹に包まれた古今集の反対世界
[18]………外は<植物感情の海>
シュタイナーは植物は物質体とエーテル体でできていると言ったが、植物のこのエーテル的側面は空間的には「不動」というところに現れている。植物は動物と違って動かない。要は、彼らは反転した空間に生きている生き物なのだ。この地上には反転した空間が重なっていて、その中心は地球中心ではなく、太陽となっている。草木たちが絶えず太陽の光を追いかけるのは、太陽が彼らの内なる中心であるからに他ならない。人間が反転した空間に出たとき、人間もまたこの植物的感情に触れることができるはずだ。そのとき、私たちは外から私に向かって語りかけてくる無数の情緒に出会うことができるだろう。
[19]………死・希望・人神
純粋持続は死の希望空間。人神の未来性への基礎_________これは、まさに、ヌーソロジーが見つめているもののことといえる。ヌーソロジーにとって持続空間とは存在そのもののことを意味している。存在とは不生不滅、つまり、生まれるものでもなければ、滅するものでもない。ただ、本有常住として、もとのまま、ありのまま、ただあることそのもの。その場所こそが死の実体だろうと考えている。だから、死は現代人が考えるような全き無の世界ではない。むしろ、それは存在の充満そのものの世界なのだ。その中で、ひとときの生として「私」は存在にとっての一つの記憶となる。ドゥルーズ が言うように、記憶が我々の中にあるのではなく、存在としての記憶、 世界としての記憶の中で生きているのは私たちの方だと考えよう。その存在が開くことにでもなれば、それは絶対的な希望と言えるものだろうし、また、やがてやってくる真実の未来の礎と言えるものだろう。
9月 17 2021
最近の夢想
最近は存在を思考すること(芸術や宗教儀式等を含む)が最も重要な労働とみなされるような社会を夢想している(笑)。
生産重視の社会から見れば最高の怠慢というか、無駄飯食いのヒッピー的社会と言えるだろうけど、単純に人間の欲望が内在に向かうなら、そのような社会もアリだろう。古代はそういうものだったのだろうから。
バタイユなんかは生産ではなく、消尽を先行サセルベシとする普遍経済論なる過激な経済論を説いていたが、いずれにしろ、このオナニズム化した右肩上がりの経済発展信仰というヤツを生産性の欲望から撤退させるには、否定性の名の下に忘却された存在の場所を開くしかない。
アンタ方向が逆だよと。
バタイユの言うとおり、自然はエネルギーに満ち溢れている。太陽は何の見返りも求めることなく今日も地球にエネルギーを送り続けている。
純粋なる贈与がここにある。この贈与抜きには人間の世界なんてものは存在しちゃいない。
この膨大なエネルギーを発する元となる質量は一体どこからやってきたのか。それこそが富の源泉だ。真の生産だ。
この真の生産の謎を私たち人間はまだこれっぽっちも解き明かしちゃいない。
物理学は、ここで、やれカイラル対称性の破れとか、ヒッグス場とか、理屈を並べ立てるだろうが、失礼ながら、物理学者とて、それが何かなんてことには一言も答えられない。
エントロピーにしてもそうだ。エントロピー増大則で支配された宇宙に、なんで生命なんてものがいるんだ?
この自然界に満ち溢れる富の源泉・・・。その場所に経済の原点を見ないから、地球はこんなになっちまったんじゃないのかね。
生産のための消費なんて、もう誰もやりたがってないだろうに。
質量とは私たちの内在の力が作り出したもの、という発想がなぜ浮かばないのだろうか。
内在性の経済圏というものがあるんだよ。だから、私たちはこうして生きることができている。宇宙の風景を変えていかないと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: バタイユ