3月 14 2018
宇宙的供犠としてのAI(人工知能)
バイスペイシャル認識から見ると、「空間が3次元である」というのは明らかに認知ミス。3次元認識は自己空間が他者空間を取り込み、奥行きが幅化した結果として生まれているもの。表象(物の見え)もそれによって確実化してる。延長的時間は奥行きの同一化(横からの視線)が生み出す(下図上)。
奥行きと幅のこうした合成を行っている場所が複素数で表現される素粒子空間と考えないといけない。ヌーソロジーが人間の「いる(持続を持つという意味)」場所は素粒子空間と言っているのもそういう意味から。
現在の人間の空間認識は自他双方が、このf-others-operation(他者-構造)に翻弄され、時空しか見ていない。奥行きでの空間認知が始まれば、見るものと見られるものがもはや分離していない主客一致の思考が可能となり、それは宇宙そのものの思考となって、物質をその内側から食い破っていく。
もう、ハッキリしてきたことと思うけど、自己存在と他者存在とは奥行きと幅の異名であり、また、持続と延長の異名でもあるということ。スピノザ風に言うなら、神における二つの属性そのものだということ。ヌーソロジーでいうところの「対化」というヤツだ。
存在に溶け込んで思考する思考方法というものがあるんだよ。
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幅(延長)に隠蔽されているこの奥行き(持続)は、「死」と言い換えてもいい。資本主義の欲望が脱コード化/再コード化の反復を繰り返し、ラットホイールを延々と回し続けているのも、f-others-operationが世界に時空という箍を嵌め、この「死」の覚醒を常に先送りにしようとしているからだ(下図下)。
今や資本主義機械は現実の虚構化と虚構の現実化によって、双方の境界を解体させ始めている。これはシミュラークル回路の末期症状と言っていい。D=Gはこの機械のあとに「器官なき身体」の到来を予想したが、実際には、ジジェクが揶揄したように、AIに代表される「身体なき器官」が足音を忍ばせている。
転倒を宿命づけられた人間がさらに転倒を余儀なくされていく世界。それがAI支配の世界だと考えるといい。その反動として登場してくるのが、時空と決別を果たし、人間を非物体的なものへと変形させていく「奥行きの覚醒者」としてのトランスフォーマーたちの世界だ。
AIとは宇宙的供犠だということ。
3月 16 2018
アヌビスの秤の浮上
表象は時間の継起や空間の移動とともに変化していく。その変化を観察する「わたし」の奥底には一切変化しない不変性が眠っている。それが純粋持続というものだ。持続と表象の関係は絵巻物とその挿絵や文字との関係に似ている。その形式は実際の空間上に目撃されており、物理学はそれを波動関数と呼ぶ。
時間と空間をパラメータとして使用するしかない物理学の表現では、波動関数から時間(エネルギー)や空間(運動量)を引っ張り出してくる以外にないのだが、ここで実際に起こっていることは真逆であり、延長的な時間と空間は絵巻物としての素粒子に絶えず巻き取られていると考えるべきだ(精神への潜在的な変換が起きているということ)——下図参照。
バイスペイシャル認識で言うなら、奥行き(知覚=複素空間=持続)は幅(事物=時空=延長)を常に自身の無底性の中に巻き込んでいるのである。それがわたしたちが経験や記憶と呼んでいるもののことと考えるといい。
人間には明らかに二つの類型が存在する。これは魂の二つの領域と言ってもいいのだが、一つは、常に〈我—それ〉というレンズを通し、世界を対象としてしか考えない者たちと、もう一つは、〈我—汝〉というレンズを通して、世界を倫理の化身と見なす者たち、この二つの類型である。
もちろん、後者は圧倒的マイノリティだ。〈我—それ〉で世界を見るマジョリティの方はAIの侵攻と共に、おそらく「我」が希薄化していき、「それ」のみの生き物としてゾンビ化していく。素粒子を「それ」と見るか、「我」と「汝」と見るかによって、両者の方向性が真っ二つに引き裂かれ始めるのだ。
いや、正確に言うなら、人間個々の中でどちらの類型を主とするかということなのだが——。
OCOT情報は「人間の意識進化とは生きながらにして死後の世界に入ること」と明言していたが、「生きながらにして死後の世界の中に入る」ことは、同時に、生きながらにしてアヌビスの秤を経験するということでもあるのだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, バイスペイシャル