7月 6 2016
サタンからジュピターへ
君が奥行きで世界を感じとっているとき、そこは密閉されたモナドの内部である。しかし、君が幅で世界を感じ取っているときは、君はそこからはじき出され、君自身のモナドをミクロ世界の中に見ることになる。この通り抜けの空間感覚に敏感になることが必要だ。君は小人でもあり巨人でもあるのだ。
デカルトは魂と肉体が点的な場所で接すると考え、それを松果体の位置とした。しかし、それではまだ幅好きの巨人の意識に支配されたものの見方だ。松果体の本質は特異点としての無限遠点である。物質世界と魂はそこで接している。
肉体は日々、この接点における巨大でもあり微細でもある振動を感知している。呼吸という活動もまたこの二つの領域をまたぐ反復を担っているのだ。熱せられるか冷やされるか、消滅するか出現するか、そして、生きるか死ぬか。
わたしたちは皆、魂を持つ。それを忘れてはいけない。
「観点の球面化」とはモナドの輪郭をトレースしていく原初のヌースの運動である。このときの球体の中心点は非局所的点となる。この運動の物理学的表現が大局的位相変換ψ’=e^iθ・ψだろう。この操作は時空上のすべての点の位相を一斉に同じ大きさだけ変化させる。非局所なのだから当たり前だ。
意識は経験や学習など部分の寄せ集めによって生まれるのではない。それは最初から非局所として働く大局的な能力であり、全体の状況を瞬時にして考慮することができるものなのだ。こうした意識の特性を素粒子ほど如実に表現している現象野は存在しない。魂は収縮して現れる。それを推して知るべし。
人間の知の最大の障壁は素粒子が未だに物質と見なされていること。それに尽きる。今のわたしたちに一番必要なのは空間に対するゲシュタルト変革だ。幅から奥行きへ。土星の巨人族から木星の小人族へ。そう、サタンからジュピターへ。クロノスとアイオーンの戦いは始まっている。
9月 9 2016
ヌーソロジーを理系の話と思っている人が多いがそれは間違い
スタッフのOくんがヌースレクチャー2015のVOL.4のDVDの製作に追われている。第四回のテーマは「次元観察子と自我」。ヌーソロジーを物理学を通した意識論と思っている人が多いが、実はこれは逆も言えて、心理学・哲学を通した物質論という言い方もできる。
このVOL.4は心理学や精神分析を通して観察子概念を解説する回になっている。案内文を見てみよう。
―人は折に触れて「わたし」とは何者かと考える。「わたし」が「わたし」であることは自明であるにも関わらず、「わたし」の意味について考えざるを得ないということは、「わたし」という存在がつねに正体不明なものであり続けているからに他ならない。哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と語り、
「わたし」とは思考する者のことだと言い切った。ここには現代人が考えるステレオタイプ化された自我イメージがある。しかし、この文章はどう見ても変だ。結果である「我」が原因である「思う」に素知らぬ顔で入り込んでいる。正しくは「思う、故に我あり」なのだ。
では一体何が「思っている」のか。それを人はつかめない。だから、あがく。「思う我」と「ある我」の間には、言葉で表現することのできない亀裂がある。この亀裂を超えない限り、人はほんとうの「わたし」を知ることはできない。
以上、引用終わり。
この亀裂のナゾを解くことがポスト構造主義最大のテーマだったと言っても過言じゃない。そこで、出てきた結論は、そこには「もの自体」が挟まっている、というもの。つまり、「もの自体=物質の起源」を挟んで、僕らの意識と無意識がグルグルとラットホイールのように旋回し続けているということだ。
BABYMETAL風に言うなら「悪夢のロンドが繰り返されている~♪」ということになる。このロンドに飽き飽きしているのなら、ワシらは「もの自体」に突入するほかはないじゃろう。その入り口が「奥行き」にあるという筋立てがヌーソロジー。
だから、ヌーソロジーは自我論でもある。ただし、そこで精神と物質を分けて考えない。だから、当然のように素粒子も出てくる。いや、出てこないとおかしい。結局のところ、学問における文系・理系の乖離自体が近代自我の産物であるということ。両者を接合しない限り、意識進化なんてものはやってこない。それを推して知るべし。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: BABYMETAL, デカルト