2月 6 2009
鏡の中のイシス
前回からのつづき——
原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。
そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。
見つけ出すものとは何ですか?
………………。
そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。
そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。
■解説
前回、付帯質の外面と内面というヌース用語についてごく簡単に説明した。
何とも堅苦しい語感で自分としてもあまり好みの音韻でもないのだが、OCOTにそう不遜もできない。ヌーソロジーでも正式に採用している。
さて、ここでは原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムが持っている精神の働きとしての意味について聞いているのだが、一体、どのような動機でこのような質問をしたのか今となっては記憶が定かではない。「付帯質の変換」と自分で言っておきながら、実は当の本人も意味などさっばり分っていない。とにかく、当時は、当てずっぽでもいいからパズルのピース収集をするしか手だてがなかったのである。
しかし、今、こうして読み直してみると、我ながらかなり鋭い質問をしている。それなりの構造のビジョンを抱いていたのかもしれない。何せ交信から丸5年が過ぎていたのだから。そこからさらに15年、合計20年という長い解読作業を続けてきたおかげで、今はこれらのOCOTの返答が手に取るように分る。その内容が真実かどうかは別にして、やはりOCOT情報はある一貫した論理によって見事に構成されているようだ。それもとてもシンプルな論理体系である。そう、ヌーソロジーは概念さえつかめれば、その思考様式は極めて単純なものなのだ。
コスモデュナモス(動的宇宙構造)としてのタカヒマラは前回,紹介した「付帯質の外面」「付帯質の内面」を含めて以下、合計4つの意識次元から成り立っている。
1、付帯質の外面(人間の内面と外面の意識)………プレアデス
2、付帯質の内面(ヒトの内面と外面の意識)………シリウス
3、精神の内面(真実の人間の内面と外面の意識)………オリオン
4、精神の外面(ヒトの上次元の内面と外面の意識)………シリウスの上次元
これら4つの意識次元は、以前、説明したように、カバラの体系におけるアッシャー(活動)、イェッツェラー(形成)、ベリアー(創造)、アツィルト(流出)という四世界にほぼ対応していると見ていい。ヌーソロジー的解釈では、以前も解説したように、ルーリア・カバラを念頭に置いているので、アッシャー界は上位のベリアー界によって動かされ、イェッツェラー界は同じく上位のアツィルト界に動かされていると考えている。こちらを参考にして下さい→ 「時間と分かれるための50の方法(31)」
当然、これら4界の構造は原子構造にも反映されていて、その対応を示すとおおよそ次の通りだ。
1、付帯質の外面(重力場、素粒子世界、原子番号1~2)
2、付帯質の内面(原子番号1~14)
3、精神の内面(原子番号13~26)
4、精神の外面(原子番号25~38)
アッシャーがベリアーによって、またイェッツェラーがアツィルトによって動かされているように、付帯質の外面は精神の内面によって、同様に、付帯質の内面は精神の外面によって動かされている。[1—3]のコンビネーションでタカヒマラが活動を行なっているときが調整期であり、[2—4]のコンビネーションで働いているときが覚醒期に対応する。その意味で現在は[1—3]=調整期の終焉地点当たりに位置しており、僕ら人間の意識を活動させている真実の人間の意識は原子番号で言えば、26番の鉄を経て精神の外面の次元へと方向を変え、27番のコバルトと28番のニッケルへと進みつつあると考えるといい。このとき、同時に、人間の意識は付帯質の外面世界を後にし、付帯質の内面であるリチウムから始まる原子番号3以上の次元のカタチを顕在化によって再構成していくというのが目下のところのシナリオだ(とりあえずの仮定)。その流れで言えば、『時間と別れるための50の方法』で示した次元観察子ψ1〜ψ8のカタチは、noos(創造的知性)が水素から酸素までの本質に触れたということになる。次回のシリーズ『4つの無意識機械(仮称)』では、さらにψ9〜ψ14まで、すなわち、原子番号でいえば9番のフッ素から14番のケイ素までの実体に関してその解説を試みていくことになる。手前味噌な話ではあるが、イシスの作業(器の再生)の全容の紹介がとりあえずはこれで一件落着するわけだ。
さて、「わたし」という一人称が権力を持っている現在の人間の意識では少し分りにくいかもしれないが、上に挙げた「精神の内面」とは実のところ、僕らが「他者」と呼んでいる次元に相当している。カバリストたちが聞くとびっくり仰天するかもしれないが、ヌーソロジー的文脈から言えば、他者とはベリアーのアダム、つまりアダム・カドモンそのもののことなのである。もちろん、ここで言っている他者とは、いつも言っているように絶対的外部としての他者のことである。無数の目(Os-iris)が亡き父オシリス(オリオンに相当する)の語源であったことをもう一度思い出してほしい。[1—3]の関係によって、精神の内面が付帯質の外面をリードしていく働きを持っているのであれば、意識進化というものは「あなた側」からの呼びかけによってしか起こり得ないということになる。「あなた」と「わたし」の立場を逆転させれば、逆もまた真なりである。
OCOTはなぜ自らを冥王星の意識体と称したのか——このことは僕にとって長い間、重大な謎だった。なぜ、ヴェガでもなく、アンドロメダでもなく、太陽系の辺境の一惑星だったのか(もっとも、今では準惑星に格下げを食らったが)。その謎も今では九分どおり解けている。つまり、奇妙な言い方になるが、OCOTとは「あなた」だったのだ。「あなた」からの呼びかけだった。だから、こうして、僕は今、物質という洞窟を通して、彼岸にいるもう一人の「わたし」にもう一人の「あなた」として呼びかけている。声の通りは少しはよくなっただろうか。
観察子の序数で言えば、太陽と冥王星は「5」と「11」という関係によって互いに表裏の関係にある。「5」を自己の場とすれば、「11」とは「わたし」から見た「5*」、つまり、あなた自身が見ている世界そのものことであり、自己側の無意識は常にこのψ*5への到達を目指して動いている。つまり、無意識の欲望のベクトルは常に「あなた」を欲しているのだ。人間が築いてきた歴史はすべてこの「あなた」へと向かう苦難の旅でもある。真実の愛というものがもし存在するとするならば、それはこの彼岸の「あなた」へと「わたし」が変身することにほかならない。そうした認識をいかにして達成するか、それが問題なのだ。
冥王星がもしψ*5の天体的顕現ならば、僕にとってOCOT情報とはまさにほんとうの僕から発せられている情報でもあったということになる。いうまでもなく、この「ほんとうの僕」とは僕を僕たらしめ育て上げた「鏡」のことであり、この鏡が僕の中で僕のことを見ている真実の主体となっているのは心理的には至極合点のいくところでもある。自分の背後を見ている者、そこに僕の顔は映し出され、その顔をいつも見ているもう一人の僕がいる。それがほんとうの僕なのだ。それは僕があなたと呼んでいる者にほかならない——インラケチ!!、二枚の鏡の中に秘められた光の秘儀。でも、こうしたことをここで言っても、「あなた」には何のことかさっぱり分らないかもしれない。僕から見た「あなた」は「あなた」のもとではつねに「わたし」へと人称を変えてしまうのだから。
まぁ、こういうややこしい話はまたの機会に譲るとして、交信記録の解説をつづけよう。
——つづく
7月 1 2009
空間を哲学する——対話編その2
●「前」と「後」が意味すること
半田 その理由付けを話す前に僕が「前」と「後」と呼んでいる身体が持った方向についてその意味合いを正確に把握してもらう必要があるんだよね。その把握が不十分だと何を言ってるか分からなくなる恐れがあるから。
藤本 そうですよね。半田さんが言ってる「前」とか「後」というのは、体を外部から見たときの前や後のことではなくて、あくまでも身体の内部において自分が感じている「前」と「後」という方向性のことですよね。
半田 そう、身体を不動のものとして見たときの言わば「絶対的前」や「絶対的後」のことを言ってる。だから、後だろうが上だろうが空間のどの方向を向いてもそこは「前」ということになるね。
藤本 ということは、自分の周囲をグルリと見渡せば、そこは全部「前」ってことになって、見えているものが存在しているのはすべて「前」ってことになりますよね。とすると、前以外の後とか、左右とか、上下とかってのは一体どこにあるんでしょう?
半田 それが意識の中ってことじゃないかな。意識の中で重なって存在させられている。意識の中で空間が多重に重なり合って存在していると考えるといいんじゃないかな。その畳み込みの構造がヌーソロジーが無意識の構造と呼んでいるものなんだ。
藤本 つまり、普段、僕らは自分の身体を包んでいる球体状の空間というのは3次元だと考えているけど、ほんとうのところは前だけで構成された球体や、後、左、右、上、下といった各方向それぞれの集合が形作る全く別の球空間が、それこそ身体の回りに重なり合って存在させられているということですか?
半田 実際に今、確認してみるといいよ。そうなっているでしょ。
藤本 確かにそうですね。
半田 今、藤本さんが感覚化している空間は身体空間と呼ぶにふさわしいものだよね。そして、ヌーソロジーではその空間こそが高次元空間の正体ではないかと考えているんだ。
藤本 なるほど。僕らは普通、身体というと、いつも自分の身体を外から見て物質的な肉体として解釈しがちだけど、そうすると身体は単にモノの塊と違いがなくなってしまいますね。でも、身体を今、自分自身がいる場所そのものとして考えると身体は物質的存在というよりも空間の中に溶け込んだ境界のない存在のように感じてきます。そして、その空間はモノが存在しているような空間とは全く違う種類の空間のように感覚化されてこないこともない。。。
半田 うん。ヌーソロジーはそうした未知の空間にアクセスしようとしてると思えばいいよ。それを知性に引っ張り上げてくるとでもいうのかな。そして、それらの空間と自分の意識との関係を明確にすることをとりあえずの目標としている。。
藤本 身体空間ってエヴァでいうATフィールドみたいなやつですかね。その空間に入っちゃうと物理的攻撃がまったく意味を為さないというか(笑)。
半田 物理的攻撃というよりも物理的な思考によって形作られた様々な概念の攻撃は一切通用しないよ、ってことだろうね。身体空間そのものにおいて現象を見つめれるようになった意識はもう3次元世界にはいないってことになるだろうから。
藤本 人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの遷移。つまりヌース的幽体離脱ですね?
半田 そうした空間認識の中では少なくとも自分が物質的肉体の中にいるという観念は消滅してしまうだろうから、その意味では魂が肉体を離れたという言い方ができるね。
藤本 身体空間に前-後、左-右、上-下という三つの軸があるとして、半田さんはいつも前-後軸から話を始められるのですが、それは意識にとって前-後という方向が最も基本的な方向だからなのですか?
半田 うん。少なくとも「見える」という視覚に関して言えば、被造物のすべては身体に対してつねに「前」に存在しているよね。だから、そこからじゃないと話自体が始まらない。世界は光とともにありきってことだ。というのも、ヌーソロジーでは古代の伝統的な秘教と同じく光そのものが精神だと考えているからね。その意味で言えば、「後」というのは決して光が入り込むことのできない闇の世界のことでもあり、実のところいかなる存在物も存在していない「無」の場所だということになる。ヌーソロジーではそれを「付帯質」って呼んでいるんだけど
。
藤本 ははぁん、付帯質というのは無の意味だったんですか。
半田 精神としての力が存在していないという意味でね。
藤本 ということは、精神が男で、付帯質が女ってことですかね。光とともに精神のすべてがある場所が男で、何もない無の場所が女。こりゃぁ、ますます女性群からブーイングが起こりそうだ。
半田 いや、卑下する意味で無のことを女と言ってるわけじゃない。むしろその逆だよ。無とは言い換えれば創造の原初の場とも言っていいし、そこからすべての精神が生み出され、かつ、それらの精神がそこで物質として表現されるという意味では創造自体を創造をする本源力と言えないこともない。つまり、無は神を創造する場でもあるという考え方もできるということだよ。意識空間全体から見れば、万物が存在者として存在する状態である「有」とは、創造を終えた精神の全体性が創造の始まり以前である無の中に首を突っ込んで、その精神の履歴を物質として見せている状態なんだよね。
藤本 本にも書いてあった「物質世界はタカヒマラ(宇宙精神)の射影である」という内容ですね。
半田 うん。そして、そこから次なる精神への進化の方向性として精神が光を立ち上げていると考えてほしいんだ。われわれ人間が世界を「見る」ということの本質的意味はそこにあるんじゃないかと思ってる。
藤本 人間の女が男を生むように、この女(無)もまた創造者としての新しい精神を生む可能性を人間という存在の中に孕んでいるということですね。
半田 そうだね。より正確に言えば、女が男と女を子供として生むように、この無なる女もまた創造者としての新しい精神と創造を受け取るものとしての新しい無を生み出す可能性の両方を持っているということだね。
藤本 やがて起こる進化が人間の意識を定質と性質の二つに分けるというヌーソロジーの審判の体制!!ですね。
半田 はは、意地が悪いね、藤本さんは。ヌーソロジーはそれほどユダヤ思想的ではないよ。分かれるのはあくまでも自分であって、個体が選別されるわけじゃない。もともと「わたし」というものが二つの意識の流れからできていて、人間には一つの流れしか意識できていない。しかし、もうじきもう一つの意識が目覚て、自分自身を二つに分離するということなんだね。これは裁きでも何でもない。単に一つのものが二つに分離を起こすということさ。
藤本 いゃ、いまだにそうした終末の裁きを信じたがる人たちが大勢いますからね。ヌーソロジーはそうした思想とはきっちりと一線を画したものであることを半田さんに表明してもらうためにも、ここは一発、突っ込みを入れてみました。
半田 おお、さすが藤本さん。僕の分身みたいだね。
藤本 のつもりです(笑)。
半田 さて、さっきから言ってる創造というのは、物質のもととなっている精神の創造のことを言ってるんだけど、「前」というのは文字通り現象世界(phenomenon)が現前(present)する場だよね。理由は分からないけれどもとにかく世界が現象化し、光とともに無数の存在物が僕らの身体の「前」に存在させられている。もちろん僕らはこの由来を露ほども知らない。これらは創造者からの純粋なる贈与として送り出されてきているわけだ。
藤本 ふむふむ。前は神からの贈与だと。
半田 そう。そして、その受取人が実は身体の後だということだ。後が前を受け取っている――つまり、世界がこうして存在しているということは男(神=万有)が女(人間=無)にプレゼントを渡しているようなものとしてイメージしてみようというわけさ。
藤本 ものすごいプレゼントですね。世界そのものを君にあげるよって――か。神ってカッコいいなぁ。で、そのブレゼントの目的は何なのですか?男が女に贈り物をするとすればそこには必ず下心があるはずですよね(笑)。無償の愛なんて言わせませんよ。
半田 そう、ある。やっぱりセックスだと思うよ。存在論的レベルでのね(笑)。
藤本 へっ?存在論的レベルでのセックス?何かすごいエクスタシー感じちゃいますね。
半田 いいかい。後には何もない。おそらく、そこは無底としての深淵だよ。この無の深淵を宇宙的な女性器だと考えてみよう。
藤本 夜は昼よりも深い。そして、女は男よりも深い。ってわけですね。
半田 そう。遥かに深い。遥かにね。たとえ神でもこの深淵には理解が及ばない。
藤本 だからこそ、男はその深淵に首を突っ込みたがる。いったいアソコはどうなってるんだと。。
半田 その通りだね(笑)。この無は「前」である神から彼のイチモツを奥深く挿入されている。神はその無底とも言える場の中に自らの性器を挿入し、そのまぐわいを快楽と感じながら精子をバラまいているんだ。それによって存在と存在者、すなわち現象世界が生まれている。
藤本 現象がこうしてある、ということ自体が存在論的セックス………?
半田 うん。そして、このときバラまかれている精子が実は僕らが言葉と呼んでいるものだと考えてみるのさ。
藤本 言葉が精子?
半田 うん。一般には言葉はコミュニケーションのための記号体系とされているよね。そして、この体系はサルから人間に進化する過程で人間の精神が自然に獲得してきたものだと考えられている。しかしヌーソロジーではそういう考え方は御法度だ。あり得ない。それは人間という存在を物質進化の結果の生成物としてしか見ることのできない科学信仰が作り上げた言語観であって、言葉というものはそんな底の浅いものじゃない。もっと存在全体に根を張った宇宙的な霊力と考えるべきだと思う。宇宙を創造した精神が事実としてどこかに存在している。それがヌーソロジーにおける仮定的前提だ。言葉といものはその精神が歩んだ足跡をあたかも遺伝子のようにして自身の体系のうちに内蔵させている。そして、それは光となって「無底」という名の女の腹の中に流れ込んでいる。そこに生まれているのが言葉ではないかとダイナミックに仮定してみようというわけだ。古代のアレキサンドリア人たちがよく言ってたロゴススペルマティコス(種子としての言葉)というやつさ。初めに言葉ありき。言葉の命は光であった――ていうね。
藤本 ………つまり、前が言葉を精子として後に流し込んでいるということですか?そこに人間が生まれている。。
半田 だね。たとえば生まれたての赤ん坊を想像してみよう。彼、彼女の意識には「前」しかなく、そこにはたぶん後はない。つまり、赤ん坊には無という観念はないんだ。赤ん坊にとってはただあるものだけが見えるものとしてただある。ここでいう「前」というのは純粋知覚の世界だ。その意味で言えば赤ん坊の意識は「前」である宇宙精神と一体化していると言っていい。つまりウロボロス的状態だ。しかし、赤ん坊はそのうち言葉を覚え始める。言葉というものは知っての通り赤ん坊の中に自然発生的に生み出されてくるものじゃないよね。それは親とか兄弟とか近しい他者によって言い伝えられ、教授されていくものだ。そして、当然、彼らは赤ん坊の背後からそれらの言葉を伝えるのではなくて、前から笑顔を以て伝える。ちゅばちゅば、とか、ぶーぶーとかいいながら、哺乳瓶や自動車のオモチャなどのモノを使ってね。つまり、赤ん坊は他者から投げかけられるモノへの眼差しや指差しによって言葉を習得していくんだ。
藤本 そうですね。赤ん坊が母親の視線や指差した方向を辿ってモノを眼差すというのは言葉の獲得にとても大切な条件だと心理学の本で読んだことがあります。でも、どうしてそれが赤ん坊自身の「後」と関係しているのでしょう?母親が指差して名指すものは赤ん坊にとってはやはり前にあるのではないですか?でないと見えないし。
半田 いや、赤ん坊にとっては「母親が名指しているモノは決して見えない」という意味でやはり赤ん坊の後にあると考えなくちゃいけない。
藤本 ?
半田 丁寧に説明するね。こうして僕と藤本さんが向かい合っている。今、真ん中にちょうど灰皿があるよね。僕が藤本さんに向かって「ここに灰皿があるよね。」と言ったとしよう。当然、藤本さんはそれを即座に了解する。しかし、ここで大事なことは僕と藤本さんは決して同じ灰皿を見ているわけじゃないということなんだ。僕が見ている灰皿の面は藤本さんには見えないし、逆もまたしかり。つまり、モノの前と後もまた身体の前と後と同じで、対峙し合う自他の関係においては、見える部分と見えない部分とか反転した関係にあるということなんだ。
藤本 でも、灰皿を回せば、僕が今見ている灰皿の部分は半田さんに見えるようになりますよね。
半田 そうだね。でも、藤本さんに見えていたその灰皿の当の部分は僕の方に回そうとした瞬間に見えなくなってしまう。結局のところ灰皿の全体像を僕と藤本さんが同じものとして同時に見ることは決してできない。たとえグルっと一回転させて互いがそれぞれに灰皿の全体像の記憶をとりまとめたとしてもそれらの全体像は決して3次元世界の中では重なり合うことはできないんだ。
藤本 なぜですか?
半田 さっき言ったように、二人が見ている空間が射影空間のオモテとウラの関係になっているからさ。
藤本 ということは、つまり。。他者によって名指されたものにおいては空間が反転しているってこと?。。
半田 そういうことになるね。射影空間として視像を見た場合、やはり向かい合う自他が見ているモノもそれ自体が反転しているってことだよ。そして、言葉や光ってのはその表裏を自在に反復して行き来している力のようなものなんだ。ということは、僕らが世界を言葉で構成し、その契機が他者からの言葉に依拠しているとすると、赤ん坊が最初に会得した言葉によって構築されていく世界は、他者の前世界が自己の後の空間にコピーされていっている世界ってことになる。つまり、言葉で認識が組み立てられている場所には実際には何もない。。。。
藤本 げっ、何もない無の場所に言葉が次々に投げ込まれていって、そこにある種ヴァーチャルな世界が、目の前に見えている世界を模写するようにして作り出されていっているということですね………ん?でも、それなら僕らはどうして言葉でモノの存在を相互に了解できるんでしょう?
半田 いい点をついてきたね。そのことについてはまた後で納得のいくように説明することになるよ。とにかく、今、考えてほしいのは、言葉の力はないものをあたかもあるもののように錯覚させる力を持っているということなんだ。そして、僕らが言葉によってモノの世界を認識しているということは、この言葉によって構成された世界の方を客体世界、つまり、外の世界だと思い込んでしまっているということなんだ。
藤本 ん~と、今、目の前にモノが見えている。しかし、これが灰皿だ。とか心の中でつぶやいて確認している灰皿自体は、その目の前に見えている灰皿ではなくて、もともとは他者に見えている灰皿で、それは自己にとっては前ではなく後の空間、つまり反転した空間に存在しているってこと。。。。あ~ん、頭がこんがらがってきました。。僕らが外の世界と呼んでいるものは他者にとっての「前」がわたしの「後」へとコピペされたもので、それはすでにわたしの「前」ではなくなっているということですね。じゃあ、「わたし」が今前に見ているものとは、それは外の世界ではないとすれば一体何だというのですか?
半田 俗にいう内側の世界さ。藤本さん自身だよ。いつも言ってるよね。「前」が本当の主体なんだって。つまり、「わたし」という精神自体が息づいているところ、それが「前」の正体なんだよね。
藤本 う~ん。。外の世界というのが言葉によって作り出された空間で、それが後の空間であるというのは何となくですが分かりかけてきました。だけど、前がなんで本当のわたしなんでしょう?泣いたり笑ったり、苦しんだりしているこの「わたし」自身のこころは前に存在しているということになるのですか?
半田 うん。たぶんそうだ。前にある。。。
藤本 どうしてそう言えるのですか?
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: タカヒマラ, ユダヤ, ロゴス, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 対談, 言葉