2月 1 2013
「奥行き」攻めで行こう!!
2013年は「奥行き」攻めで行こうと思ってる。霊的な空間の存在を知性的に目覚めさせるには、これが一番という結論にたどり着いたもので。。長年いろいろと考えてきたのだけど、奥行きは物理学が虚軸で表現しているものだという確信がほぼ固まった。人間の知覚にとって奥行き方向に長さが見えないのは、奥行きが外部側(延長)を内部側(持続)に畳み込んでいるからだ。つまり、奥行きはドゥルーズのいう差異の「巻き込み/implication」の軸になっている。
問題は奥行きの中に自らの純粋持続を感じとる感覚能力が現代人はかなりマヒしてしまっているということ。この感覚を取り戻すための分かりやすく、かつ強度のある表現を考えないといけない。この難所さえクリアできれば、多くの人たちに魂(無意識)を構成する7つの球空間の階層が意識に自然に知覚でき始めるのではないかと強く感じている。ここで生じてくる知覚はもちろん「超感覚的知覚」と呼ばれるものなのだけど、この知覚は神秘家たちが見てきたビジョンのように決して主観的なものではなく、他者とも十分に相互了解が可能となるようなイデア的知覚として出現してくるはずだ。
このとき見えてくる7つの空間階層が物理学者たちが素粒子のシステムと呼んでいたものに相当してくる。ここで「呼んでいたもの」というように、過去形で示しているのは、この七つの球空間が人間の無意識で活動しているときの次元と、それが人間の意識によって見出されたときの次元とは、正確に言って次元が異なるものとして把握しなくてはならないからだ。この七つの球空間は哲学者たちが長年「場所=コーラ」と呼んできたものにも当たると考えられるのだが、コーラは「永遠の処女」と呼ばれるように、本来、意識ではアンタッチャブルなものになっている機構だろうと思う。だから、コーラが意識によって開示されるときはそれはもはやコーラではなくなる。だから、発見される前はコーラと呼べるが、発見されればそれはイデアへと変容しており、コーラとは別ものと考えなくてはならないということだ。この違いが物質的には素粒子と元素体(原子番号1〜14)の違いとなって現れている。
さて、この「発見されたコーラ」だが、その空間階層はとても単純な構成を持っており、図で示すと下図のような形をしている。図では4つまでの階層しか描いていないが、この階層が7階層あると考えてもらえばいい。この図が表現されている空間のベースは複素2次元空間というもので、ベースとなる球体は3次元球面というカタチだ。これは奥行きを虚軸に見立て、知覚正面を実2次元と見なしたときの空間と思ってもらえばいい。ここに示したそれぞれの球空間は時間的に表現すれば、各々が3軸で回転していて、それぞれの空間階層にリンクを張っている。一見して分かるように構造がフラクタルになっているので、各階層はそれぞれがバイナリーに繋がっていて、リゾーム化している。
触りだけ簡単に説明しておくと、第一階層の球体は僕らが普通に認識している一つのモノを象る次元を表していると考えてもらえばいい。いわゆるモノの内部のかさばりの空間だ。人間は現在、この第一階層の球体でしか宇宙を見ていないと言える。この空間は触覚空間であり、人間の世界認識に長さや大きさという尺度を与えている元となっている力を提供しているところと考えてほしい。これは長さや大きさという概念の起源が、本来はモノの端と端をむすんだ空間にあるということを意味している。これはユークリッド空間概念の起源でもあり(等長変換を要請するという意味で)、物理学でいうところのスカラー空間だ。
人間がモノを観察するとき、モノは人間の観察位置に関係なくその場でグルグルと回転することができるのが分かる。このとき、モノの背景空間は回転してはいない。すでに、ここでモノの内部とモノの外部の空間は次元が違うことに気づかなくてはならない。背景空間を回転させるためには、観測者自身がモノの周囲を回らなくてはならないが、これはモノの外部に至ってはじめて、観測者が出現する余地が与えられてくるということを意味している。それが第二の球空間の次元形成を意味している。こういう回転による次元上昇の流れで、実はこの空間は7つの次元階層を作っていっている。それを多くの人々に超感覚的知覚として発見させていくのが、ヌーソロジーの担った役割なのだろう。
宇宙を大きさで把握して記述すること。これは現代の物質主義が持った尺度の体制そのものだ。もし、空間がこうした階層次元を持って活動しているとするなら、現在、人間が持ったこの尺度の体制による認識はこの第一の球空間のみでしか宇宙を見ていないということになる。言い換えれば、意識がこの第一の球体の中にガッツリと幽閉されているわけだ。「宇宙の大きさは半径137億光年である」とか、「ビッグバンによって宇宙が生まれた」などと言った科学的な言説は、物質的思考がこの第一の球空間でしか宇宙を見ていないということの最も顕著な現れだ。そうした認識はOCOT情報に言わせれば「次元が全く見えていない」意識による架空のフィクションにすぎない。
OCOT情報は「人間の世界はミクロすぎてよく見えない」と言うのだが、それは彼らにとって人間の大方の世界認識がこのように最も次元的ミクロな球体を使ってしか為されていないからだろう。ヌーソロジーのいう次元の「顕在化」とはこの無意識構造と言ってもよい七つの球空間の階層性を人間の意識が発見していくことに相当している。その発見が、今年から始まるとOCOT情報は明言している。つまりは、魂の反撃が開始されるというわけだ。こりゃほんま存在を賭けた宇宙戦争やで。。お楽しみに。
4月 9 2014
モナドとコーラ
「一つの襞が生命体を貫通するのだが、それは生の形而上学的原理としてのモナドの絶対的内部性と、現象の物理学的法則としての、物質の無限な外部性を分配するためである。二つの無限の集合があり、一方は他方と交わるところがない」—『襞』ドゥルーズ p.51
モナドの絶対的内部性。この内部性の中でモナドがネットワーク化されていく条件が共可能性というものである。一つになれる「可能性」をモナド同士が交換し合うこと。決して一つになるのではなく、その「可能性」を共有するというところがミソだ。意識はこの共可能性に裏打ちされて発生している。
共可能性というからには不共可能性も同時に含む訳であって、絶対的内部性における創造の弁証法はこの二つの可能性の間を巡る弁証法によって展開しているという感じ。共可能性は円環的なもの(巻き込み)として、不共可能性は直線的なもの(繰り広げ)として。連接的か排他的かもここからくる。
「モナドの絶対的内部性」と「物質の無限なき外部性」は交わることがないとドゥルーズは書いているが、存在が共可能性と不共可能性の絶えることのない弁証法的発展性を持つのであれば、両者は必ず接点を持ち、絶対的内部性を拡張していく。それがOCOT情報のいう「交替化」という出来事。
で、当然、その接点の浮上とは何か?という話になるのだけど、それが量子力学だと考えている。包まれつつ包むものとして生じている時空と、包みつつ包まれるものとして生じている量子空間。内在平面は両者の間をまつっていく無限数の反復運動で貫かれているし、また今もなお、貫き続けている。
幅から奥行きへと空間の性を転換すること。奥行きとは女である。
女の性としての空間が浮上してくると、幾何学は女の幾何学へと変貌する。つまり存在の子宮として見えてくるということだ。この「存在の子宮」のことをプラトンは「コーラ(chora)」と呼んだ。プラトンによればコーラは以下のような特徴を持つ。
1、生成物を入れる容器
2、無時間性
3、叡智的なものでも感性的なものでもない
4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)
イデア=父、人間=子とするならば、このコーラはさしずめ母に対応するものと考えられる。哲学はこのコーラの前で足踏みしている。あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。
意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。
この原器の中に向けてわたしたちはロゴス(種子)を吹き込まなくてはならない。宇宙的生殖とはそういうものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: コーラ, ドゥルーズ, プラトン, モナド, ロゴス, 弁証法, 量子力学