8月 24 2016
愛の原因としての愛と創造感覚について
ここのところ、暇を見ては素粒子物理について再考している。
結局のところ、ゲージ理論に表現される対称性の原理とはスピノザ-ライプニッツにいうところのコナトゥス(自己保存欲求)とイメージがほとんど被るな。コナトゥスというのは、常に自己意識を自己意識たらしめておこうとする力のことなんだけどね。「神の意志」とか呼ばれることもあるんだけど。
要はゲージ理論の中で要求される対称性というのは、延長空間(被造物空間)が提供する局所的認識と持続空間(創造空間)が提供する非局所的認識のバランスを維持している力だってこと。
観点の球面化の思考実験でもわかるように、人間の意識は時空の方に一方的に傾いていて、非局所的認識の方が完全に無意識化している。時空意識だけだと実体とのへその緒が切れてしまうので、その両者間の琴線が切れないように絶えず力の調整を図っているのが複素空間の次元において様々な対称性を持っているボゾン(力の粒子)の役割だということになる。
ヌーソロジーが「素粒子世界は超越論的無意識の構造(自我構造、もしくは魂の構造)だ」というのはそういう意味合いから言ってると思ってほしい。
OCOT情報はこうした構造のことを単純に「カタチ」と呼ぶんだけど、これはプラトンの形相(エイドス)という概念にとても近いね。このカタチが時空側に表出するときは今度は質料(ヒューレー)となって現れる。その意味で形相と質料はアリストテレスが言ったように同じコインの表と裏のような関係にある。
問題はどちらを先手に取るかというところ。。カタチが見えない人間は当然、質料を優先しているよね。今じゃカタチの世界は悪しき形而上とか言って一刀両断にされて、質料と共に現れたニセのカタチ(僕らが普通に形態と呼ぶもの)の方を形だと思い込んでしまっている。
こうした欺瞞ってのはどこにも見られるんじゃないかな。たとえば、愛という観念においても同じだね。一口に「愛」と言っても二つの方向があるんだよ。愛の原因としての愛と愛の結果としての愛ってやつ。前者はカタチを通して物質を創造していくんだけど、後者はカタチが見えず創造された物質世界の中で他者や物質を囲い込むように振る舞う。創造感覚が欠けた愛はすべて後者の愛だと言っていいと思うよ。
人間愛、家族愛、国家愛、なんでもいいのだけど、近代理性が掲げる愛がすべて嘘くさいのは、近代理性には創造感覚というものが完全に欠如してるからなんだ。人間が宇宙を創造できるなんて今の時代、誰も思っていないでしょ。でも、ほんとうはこの創造感覚というものが”信仰”の本質でなくちゃならない。その信仰の中に新しい愛のカタチ、愛の原因としての愛というものがあるんだよ。きっとね。
そろそろそっちに向かってもいいんじゃないかなぁ。
下イラストはこちらのサイトよりお借りしました。
http://www.twodolls.net/archives/2016/01/back-to-back.php
9月 26 2016
物理学の話は人気がないので、もう一度!!
(何事においてもそうだけど、一番大事なことは常に隠蔽され、人々をそこから遠ざけるように人間の体制というものは仕組まれているということ)
持続意識が持った時間的自由度というものにまずは注意を向けてみよう。意識は持続意識の中で過去を想起することもできれば未来も予期(予知ではないよ)することができる。だけど、持続意識だけだったら「いま・ここ」という現在が極めてあやふやなものになってしまう。
そこで意識は「いま・ここ」を固定するために、持続意識の働きを打ち消して潜在化させる仕組みをその内部にセットしている。持続意識は無意識化するということだね。これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係のようなものだと思うといい。等化が無意識(持続=非局所)、中和が意識(継起=局所)。
物理学がゲージ理論の中で対称性と呼んでいるものは、この局所性を保証するためのシステムだと考えるといい。局所的U(1)変換対称性であれば、持続意識が時間的に自由に動き回るとき、その動きの中で現在を見失わないように、絶えず意識の位置を現在に戻そうとする働き。そういうものだ。
局所的SU(2)変換になると、その意味で今度は時間領域が二つ出てきて、さらにそれを統一しようとする領域も出てくる。U(1)に対して時間領域の自由度がまぁ3倍になると思えばいい。この三つの自由度が、自己、他者それぞれの主観的時間性、さらには客観的時間性という位相に当たると考えるといい。
この変換が局所的対称性を持つというのは、持続意識がその領域を自由に移動できるのだが、それだけだと統合失調症的状況に陥ってしまうので、それをまた、「いま・ここ」へと戻し、等化を中和に持って行くというイメージだ。
そういえば、NOMI体験のとき、NOMIはこう言ってきた。「今からあなたを霊的世界へと案内しますが、それによってあなたは気が狂ってしまうかもしれません。その危険性を避けるための合言葉を教えておきます。」その合言葉は次のようなものだった(笑)
―いつもいつもとは、いつのことですか―
―はい、それは今のことです―
結局、僕は案内の途中でたびたび繰り返されるこの合言葉に答えられなくなり発狂してしまった(笑)。「現在」とは言ってみれば、人間の意識のアンカーのようなものなのだ。
このアンカーの役割を果たしているのが物理学者たちが言っている局所的ゲージ対称性の本質的意味だと思うといい。標準理論に倣うなら、僕らの持続意識の領域は大別すると、U(1)領域に始まってSU(5)領域まで五つある。その広大な領域を無意識は巡る一方、「いま・ここ」に錨を下ろしてもいるのだ。
これらの対称性を持って力を媒介するとされるボゾンとは、その意味でいうなら、中和側が先行した、僕ら人間の意識を司っている構造そのものの物理学的表現と言えるだろう。
局所的意識が表面に出て、非局所側が潜在的なものとして沈み込む―これが人間の意識の在り方だとすれば、人間の意識の反転というその語義は、非局所的意識が表に出て、今度は逆に局所側が潜在的なものとして沈み込むスタイルを取る。これがOCOT情報のいう「人間の意識の覚醒」というものだ。
物理学的にいうと、これは超対称性変換というものに当たると思われる。ボゾンとフェルミオンの変換対称性である。
ヌーソロジーでいう人間の定質(等化の総体)と性質(中和の総体)の交替化がこれに当たると思うといい。
この作業は、シュタイナー的にいうなら、アストラル体の霊我への変換と言えるだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ゲージ理論, シュタイナー