11月 1 2019
ヌースレクチャー2019 IN 東京第3回、無事終了!
ヌースレクチャー2019 IN 東京第3回、先の日曜日、二次会ともども無事終了しました。参加していただいた皆さん、ならびにスタッフの皆さん、どうもありがとうございました!!
今回のレクチャーでは、『ロードオブザリング』をネタにして、ヌーソロジーが見ている人間の自我意識の発達プロセスと歴史意識の発達プロセスの同型性をケイブコンパスを使って解説していったけど、ちょっと難しかったようだ。ヌーソロジーが用いるケイブコンパスが意味するイメージがまだよく伝わっていないのだろうと思う。
次回は映画『マトリックス』の話を絡ませながら、今回ご紹介した無意識のフローの構造に素粒子構造を重ね合わせて話を進めてみようと思っているんだけど、ケイブコンパスの内部風景を知ってもらう意味も含めて、空間認識との対応も少し紹介してみようかな、と。
「地図」を持って「現地」に入る。
ヌーソロジーの醍醐味もそこにあるからね。
9月 20 2022
ハイデガーの存在の思考をヌーソロジー的に示すとこんな感じ
物の外部には実は瞬間性しかない。物は現れたと思ったら、その像はすぐに記憶として物の内部へと奥行きを通して回収されて行っている。そこで回収を行っているのは、紛れもない”持続”としての自分であって、この毎瞬、毎瞬の回収性のなかに時間感覚が生じている。物の運動イメージ一つとっても、こうした回収によるものだ。ベルクソン感覚だね。
問題はそうした毎瞬がどのようして物の外へと飛び出してくるのかってこと。構造的には、それは他者に見られるという経験が発現させてくるものなのだけど、物は自分自身を外から物質として見るために、他者を用意したのだとも言える。他者から見られて自我が生まれるのも、物が自分を物質として見る拠点を持つためだと考えるといい。
いずれにしろ、時間は4次元(持続)の反射物として生じてくる去勢された精神のようなものであって、それによって生じる鏡像世界の中に人間という場を作り出す働きを担っている。ハイデガー風に言うなら、時間は企投であり、それによって物の外へと被投された存在が人間だということだ。
当然、この人間はそこから再度、持続としての物の内部に方向づけられている。それがハイデガーいうところの現存在としての人間ということになるのだろう。世界-内-存在としての人間(現存在)という表現も、このような存在のループの中に一つの位置を持つ人間、というイメージから来ているんだと思う。
ハイデガー哲学の初期の構成をケイブコンパスで見ると、下のような感じになる。ケイブコンパスの見方が分かっている人は、是非、ケイブコンパスの構成と、ハイデガーの思考を重ね合わせて見るといい。おそらく、その辺の解説書よりはハイデガーの思考がよく理解できるようになるんじゃなかろうか。
ケイブコンパスの内側の円で示したところ(元止揚)はモノに当たるので、すべてはモノの運動ということになる。このときのモノというのがハイデガーのいう”存在”だね。モノを単なる対象として見ている限り、存在は忘れ去られたままだっていうこと。それが「存在忘却」の意。
同時に、このケイブコンパス上のΨ1~10は核子(陽子・中性子)の構造にもなっているので、ヌーソロジーでは、素粒子知覚が存在を開示してくる、という話につながっている。ここがハイデガーとは違うところだね。ヌーソロジーでは存在の開示は民族の生起などといった話には行かず、自然そのものの中への侵入という話になっていく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, ハイデガー, ベルクソン