10月 27 2017
近未来神秘学のあけぼの—
複素空間の描像の思考は、それそのもので、すでに主客非分離の思考になっていると考えています。
複素空間から時間と空間が構成されてくるとする物理学における理論的現実は、私たちの経験的認識を可能にする超越論的構成が複素空間の構成から派生していることを暗示しています。
物質の根底はこうした複素空間で成り立っているわけですから、「物自体」とは実は、経験的なものと超越論的なものの相関関係自体をベースに成り立っていることになります。人間の物の経験はすでに物自体の中に含まれているということです。
複素空間の次元は物質的空間(時空)ではなくて、人間の内在的空間と深く関係しています。ここでいう内在的空間とは不動の空間、つまり、身体空間のことと考えるといいと思います。
どこに赴こうとも、常にそこに身体があるように、どこに赴こうとも、不動な外的中心が対象の世界に重なり合って存在しています。それが複素空間です。意識はそこで構成され、かつ、活動しているとイメージするといいと思います。
ここは実3次元ではなく、複素3次元です。シュタイナーはこの空間をエーテル体やアストラル体が流れている空間として、次のような図で説明しています。(下図参照『人智学・心智学・霊智学』P.67)
シュタイナーは自己と他者の空間を反転関係で語ってはいませんが、こうした空間構成を双対的に考えることによって、私たちは陽子や中性子、さらには電子といった元素を構成している、それこそ「物自体」の基盤の中に、思考を介入させていくことができるようになってきます。
物理学において複素空間の記述が複雑化してくるのは、いつも言ってるように、時間と空間を使ってこの空間を記述しているからです。不動性(時空を無視する)を前提にしてこの空間を見ると、それは球体の階層のようなものとして立ち現れてきます。
球体は波動関数ψ、直線的時間、空間への表現が微分演算子、高次の球体形成が行列演算子、そういった関係です。
このことは、時間・空間の概念を外した世界の中では、物自体の世界は極めてシンプルな幾何学で把握していくことが可能なことを示唆しています。このことをOCOT情報は「付帯質を外す」という言い方で表現しています。時間と空間を出た場所で世界を見ていくということです。
シュタイナー的に言うなら、そこに出現してくるものが「霊我」ということになります。
死しても、なお生きているもののことですね。
なみに、OCOT情報が伝えるには、「付帯質を外す」と、物からは重さが消えるそうです。ほんまかいな(笑)
シュタイナーとコラボして、一段と近未来神秘学の様相を呈してきたヌーソロジー。これからどのように展開してくことやら。
8月 19 2021
世界の反射としての人間から世界を反射させるものへ
世界は本当は単純なんだよ。人間は複雑に考えすぎている。世界は自分を反射させて人間を作った。人間にはその反射が見えず、反射後の世界を世界だと思い込み、そこに自我をもち、言葉で世界を固めてしまった。反射が起こる以前の世界に戻ればいいだけ。奥行きはその世界への入り口になっている。
反射の焦点に肉体が構成されているわけだけど、単なる肉体だけで自分を見るなら、それは死体と同じ。人間を物質のみで見るなら、死体と大差はない。生きる肉体が死体ではないのは、そこに奥行きが宿っているから。生きてる人間には常に奥行きが付き添っている。でも、死体には奥行きはない。ここでいう「奥行き」とはシュタイナーのいうエーテル体とほぼ同じ意味。
ヌーソロジーがいう「次元」とはこの奥行きを入り口として活動している人間の魂を形作る持続空間の構成を意味している。「次元」は〈ここ、今、わたし〉の内的な器官とも呼んでいいものであり、この「次元」の活動によって、〈ここ、今、わたし〉の内実が成り立っている。
当然のことながら、今の私たちにはこの「次元」が見えていない。それは休むことなく働いているのだけど、「わたし」の認識に何ひとつ上がることはなく、「わたし」は常にこの次元に反射させられた受動的なものとして生じている。この意味で「次元」は未だ眠ったままだ。次元は未だ「潜在化」している。
原因となるものは結果の世界の中では潜在化する。これは、存在者の世界においては存在は自らを隠蔽するというハイデガーの弁に同じ。
神はお隠れになった―というアレだ。
だから、「我は神なり」などと言って外に図々しく現れてくる神はそのほとんどが偽神だ。神は「わたし」の内の内に隠れている。内の内というところがミソ。そして、内部の内部は外部として現れる。存在の反射光がここに現れるわけだ。
この内部の内部が物質として見えてくることがヌーソロジーでいうところの「次元の顕在化」に当たる。そこにおいて初めて、私たちは精神の外化を果たすことができる。物質と精神の区別が存在しなくなる場所というものが、そこに現れてくるわけだ。外から見ると物質、内から見ると精神―主客のない世界はそのようにしてやってくる。
存在があるためには存在が欠如しなければならない(ブランショ)―であるのなら、「わたし」は一度、奥行き(死)を通して物の内部へと分け入り、そこにおいて他者側の死と出会い、そこから時間と空間自身となって再び外へと現れ出る必要がある。そのような奥行きの振る舞いのプロセスを表現しているのが本来の物質の姿なのである。
反射しか知らない人間にとって、物質は単なる表象でしかない。その意味で、表象とは虚無に響きわたる存在の残響に過ぎない。この残響から身をかわし、一度、奥行きのもとに内部へと分け入り、自らが表象を響かせるものとなって現れ出ること。永遠感覚はそのようにしてやってくる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シュタイナー, ハイデガー, 奥行き