7月 19 2019
今日も表相の等化の話
僕らは物の回転を3次元空間を前提として考える。
だから、物を180度回転させれば自分が見ている表相が反対側にいる相手に見えるのは当然のことだと簡単に片付ける。
ヌーソロジーの考え方は逆だ。
物を180度回転させたとき、自他がそれを同じ表相と見なすから、そこに3次元認識が生まれてくる―そう考える。
なぜ、そんな考え方をするのか。
それは、いつも言ってるように視線を第四の次元として考えているから。視線は3次元の中にあるものじゃない。まずはそのことを感覚にたたきこむこと。
話を分かりやすくするために、まずは視線を3次元に落として考えてみよう。
たとえば、一枚のスクリーンを挟んで二人の自他が対面している状況を考えてみる。このとき、自他に見えるのは、スクリーンの表と裏だ。つまり、2次元の表裏がそれぞれに見えている(下図上)。
ここで、この状況を一次元上げ、視線を本来の4次元に戻してみよう。
視線を4次元と置くと、自他は下図のように3次元を表と裏から見ていることになる。だから、自他が見ている3次元は4次元方向で裏返されていて、ほんとうは互いに反転している(下図下)。
だけど、「物」は平気でその空間を繋ぎ、自己側の視線の中にあった表相を相手側の視線の中に送り込んでいる(実際には確かめようがないので、「多分、送り込んでいる」という但し書きが必要だが)。
言い換えるなら、物は、ほんとうは4次元空間上を回転しているということになる。視線を含めた空間で考えるなら、物の回転はそのように描像されないといけない。
難しい数式は省くが、ここで起こっていることが物理学がスピノル場(物質粒子のスピンが活動している場)と呼んでいるものの本質だと考えないといけない。
奥行きの場は無限小に縮んでいるのだから。観察次元は物質の根底で物質を作り始める側に回っている。
7月 26 2019
「なるもの」の世界と奥行きの思考
3次元的な空間認識で接する物。それらは歴史、社会、政治、経済などの文脈を通して様々な意味を伴って目の前に現れてくる。デュシャン風に言うならレディメイドというやつだ。
物はその意味では人間の無意識のベルトコンベア機構によって生産され続けている加工食品のようなものとも言える。
「あるもの」としての物質―。
「いるもの」としての人間―。
そして、その双方の世界をつなぎ、表相(入力)から表相(出力)に至るまでを統制している無意識の欲望機械。
この機械に回され続けることを私たちは文明の進歩とも呼んできたわけだが、いかんせん、この回路には肝心要の「なるもの(生成)」の領域がどこにも見当たらない。
なるもの・・・世界がこうあるように自らを然らしめた、自然の力。
今の地球環境や人間社会の疲弊も、この「なるもの」の世界の忘却によるところが大きい。霊性、スピリット、存在、差異・・・言い方は人によっていろいろだが、とにかく世界はそのような目には見えないポテンシャルがあってこそ成り立っている。
「なるもの」の世界は「あるもの」と「いるもの」の間に隠れている。文字通りそれは「間(ま)」として活動している。その間がほんとうは「物」なのだ。物が「間」であることが見えなくなると、それは物質と呼ばれるものになる。
ハイデガーが言うように、「物」はその「あらはれ」と共に身を隠す―という存在論的アイロニーがここにはあるわけだ。
ここで、フーコーのように「あるもの」のことを言語-存在(言葉)、「いるもの」のことを光-存在(知覚)と言い換えてもいいかもしれない。
「なるもの」の世界はその意味で言えば、言葉でも知覚でもないものが活動する世界なのだ。だから、「なるもの」に触れるためには、言葉と知覚の「あいだ」に入っていかなくてはならない。
数学的に言うと、それが4次元の世界ということになる。そこでは内と外がねじれ合い、見るものと見られるものは一つとなって、生命の原型力を渦巻かせている。
こうした力が時折、時間のひび割れから漏れ出てきては、物質にアウラを纏わせるのだ。
そして、ここが肝心なところなのだが、そのような世界は決して詩人の夢想の世界というわけではなく、物理的現実として存在している。それが量子場の世界なのだ。
量子をミクロ世界にイメージするのではなく、目の前の空間の中に立ち上げること。
奥行きの思考はそうやって言葉と知覚の「あいだ」の、そのひび割れのなかの静寂へと人間の精神をそっと連れ出す。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: ハイデガー, フーコー