8月 29 2022
科学でも宗教でもないものへ
ヌーソロジーがなぜ素粒子の描像に躍起になっているのかというと、そこにのみフィシス(本来的自然)に戻るためのカギが隠されていると考えるからです。物質と精神へと自然が二元化されたところから形而上学は始まりました。素粒子を物質と見るなら、その精神的側面は数学で象られた素粒子の観念です。
本来的自然の基盤はこのように物質概念と数学的観念に分裂している・・・。どちらにも本来性はないということです。ただ、もし、この数学的観念が思考によって内的に描像されたとしたらどうでしょう?
それは当然、物質でも数学的観念でもないものになります。それは事実存在(物質)と本質存在(数学的観念)とに引き裂かれる以前の何かです。存在論の文脈から言えば、それこそが存在そのものということになります。OCOTが「カタチ」と呼ぶものは、実は”存在”のことであったということです。
実在論的思考でも、観念的思考でもない、両者を結びつける第3の思考が必要です。それがヌーソロジーが「ヌース(能動的思考)」と呼ぶものだと考えて下さい。
宗教や哲学は物質を語れない。一方、科学は精神を語れない。物質と精神、この両者の間に、両者の起源となる宇宙的生が眠っています。人間が自己と他者という存在形態に分かれ、生きることの意味を常に己自身に問うのも、この起源からの呼びかけの声の響きによるものです。
9月 15 2022
老いて幼児へと回帰すること。そして、あわよくば胎児へと・・・
物理学にいうカイラル対称性の破れとは右巻き粒子と左巻き粒子の区別がつかなくなることを言うが、素粒子を無意識構造と見た場合、おそらくこのことが空間の一般化を意味している。人間の空間認識を一様にしている原因となっている無意識の動きだ。
小学校1年生で先生から右と左を教わったとき、どうしても理解できなかったのが自分と先生の右と左の関係だった。
向かい合った状態では当然、先生の右手側は僕の左手側になる。だから、先生が「こちらが右手です」と手を上げたとき、僕は自分の左手が右手にしか思えなかった。
「はい、右手を上げて」と先生に言われ、左手を上げる僕。
「違います半田くん。何度言えば分かるんですか。」と段々とイラついてくる先生。
この応酬が何度も繰り返され、結局僕は右という概念を「先生とは反対」というかたちで受け入れた。
右巻きと左巻きが区別がつかなくなった空間において、右巻きと左巻きの区別は一体どこに行ってしまったのだろうか。物理学的に言えば、それがおそらく消えた反粒子の世界につながっている。物理的に世界を見ている限り、この世界に他者はいないということだ。
光の孤児としての私。
カタチのない精神。
言葉に生きる人間。
僕にとっては、これらすべてが同意語に聞こえる。
やはり僕には今の常識的な空間の見方が根底的に間違いを犯しているようにしか思えない。実のところ、空間は自分自身であって、空間の中にいるとされている私の方はおそらく偽物だ。とすれば、そこから派生してくるすべての知識もまた偽物だということにならないか。
ベルクソンの言葉で言えば、空間にいる私は「表層の自我」であり、空間自身としての私は「深層の自我」ということになるだろう。多くの人が深層の自我に目覚め始めた時代。表層の自我が作り出した表層の知識は、深層の自我が送り出す新しい知識に駆逐されていくことになると思う。
(下写真/「鏡の中のジョージ・ダイアーの肖像」フランシス・ベーコン)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 素粒子