8月 28 2008
時間と別れるための50の方法(31)
「生命の樹」とヌース理論の関係性(2)
ということで、さっそく生命の樹を構成している10個のセフィロトにヌース理論の観察子の番号を割り振ってみます。『人神/アドバンスト・エディション』の脚注欄にも示したように、現時点での解釈では、セフィロトは次元観察子というよりもΩという記号で表される大系観察子という一回り大きな観察子に対応しているようです。もちろん、次元観察子と大系観察子はψ7=Ω1というホログラフィックな入れ子関係を持っていますから、ψレベルでの対応も可能ですが、セフィロトの樹自体がカバリストたちが考えているように太陽系と対応しているのであれば、その全体性はヌース的には大系観察子への対応が最も妥当になります。
下図1にも示したように、ヌース理論では下位のセフィロトから1〜13までの番号を振っていきます(カバラは上位から)。ヌース的な意味を添えて示しておくと(顕在化として)、
Ω1(ψ7)マルクト(物質/人間の外面)
Ω2(ψ8)イエソド(人間の精神/人間の内面)
Ω3(ψ9)ホド(人間の内面の意識/人間の思形)
Ω4(ψ10)ネツァク(人間の外面の意識/人間の感性)
Ω5(ψ11)ティファレト(人間の内面と外面の意識の等化/人間の個体意思・自己の本質)
Ω6(ψ12)ゲブラー(人間の内面と外面の意識の中和/無意識的欲望の備給元)
Ω7(ψ13)ケセド(人間の無意識構造の顕在化/ヒトの内面)
Ω8(ψ14)ダート(人間の無意識構造の相殺/ヒトの外面)
Ω9 コクマー(真実の人間の内面の意識)
Ω10 ビナー(真実の人間の外面の意識)
Ω11 ケテル(△)(真実の人間の内面と外面の意識の等化/人間の個体意思・自己の本質を作る元)
Ω12 ケテル(▽)(真実の人間の内面と外面の意識の中和/無意識的欲望の備給元の元)
Ω13 ケテルの全体性(真実の人間の内面と外面の意識の等化)
それぞれの大系観察子の働きの意味についてはいずれまた別のところで詳しく説明を行なっていくとして、ここでは現在ヌース理論が生命の樹のどの部分に当たる作業を行なっているのかそのポイントを少しお話しておきます。
図1にも示しましたが、ルーリアカバラではこの生命の樹の全体性を、ケテル、ダート、ティファレト、イエソドという各セフィロトを中心にした4つの円で区切り、アツィルト、ベリアー、イェッツェラー、アッシャーという4つの世界を設けます。前回紹介した「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」とは、この四つの世界のうちのイェツェラー界が粉砕されてしまうことを言います。図からも分るように、イェツェラー界が破壊されてしまうということは、ベリアーにおけるダート、ケセド、ゲブラー、ティファレトも機能しなくなりますし、アッシャー界におけるティフアレト、ネツァク、ホド、イエソドまでもが被害を被り、唯一遺されるのはケテル、コクマー、ビナーの上位の三つと、最も下位に属するマルクトだけになってしまいます。
ルーリアの「シェビーラース・ハ=ケリーム(器の破壊)」によれば、10個のセフィロトのうち7個が破壊され3つが遺るというストーリー立てになっているのですが、ヌース理論の観察子構造で見ていくと、このようにダートを含めた11個(一般的にカバラではダートはセフィロトとしては数えられません)のうちのイェッエラーを構成する7個が破壊され、4個が遺されると考えた方がどうも自然に感じられます。このとき遺される4つのセフィロトとは、確認すればすぐに分るように、ケテル、ビナー、コクマーの上位三つと、最も下位のマルクトです。マルクトが遺される理由はおそらく「ツィムツーム(神の自己収縮)」にあるのでしょう。「ツィムツーム(神の自己収縮)」とは前回も少し説明したように、神が創造した被造物の場所のことです。
マルクトはカバラでは物質世界に当たり、ケテルに座する神にとってその花嫁とも呼ばれる存在とされています。ケテルへと達した一者がこの生命の樹の全体性をツィムツームによってホログラフィックにマルクトに射影する………ヌース理論がいつも言っているように、精神構造の全体性が物質構造としてこの時空世界に映し出されてくるというこうした仕組みを、ルーリアはツィムツームと呼んだのではないかと想像されるわけです。とすれば、最も上位のケテルと最も下位のマルクトは、ちょうどトランプゲームの「七並べ」で13から1に繋がるように、互いに結合し合っていることになります。ケテルの玉座に存在する神は一者であるがゆえに「万有の無」と言ってよいものでしょう。そして、マルクトはその「万有の無」が射影されているという意味において、万有が外された「無」の世界となります。ただし、そこにはアダムが一者へと達する過程で獲得した神の属性たるセフィラーが破壊された破片として蠢いています。それが物質です。ルーリアはこうした砕けた破片をケリーム(殻/魔術的カバリストたちがクリフォトと呼ぶもの)と呼んで、汚れた悪の世界が生まれた原因だと考えました。
こうしたルーリアの思想が16世紀という近代の始まりに出現してきたというのは、何とも興味深いことです。皆さんもご存知のように近代以降、人間はその理性的側面を肥大化させていき、科学万能の物質主義的な世界観を絶対とする価値観を育て上げてきました。こうした意識の在り方は,生命の樹で言えば、意識がすべてマルクトの内部で閉じ込められていることと同じ意味を持っていることが分ります。マルクトの内部世界は仏教が言うようにマーヤの世界であり、そこに世界を生成させている本質力は何もない、ということになります。カバラの世界観においては単なる物質からは生命など生まれようがないのです。 ——つづく
9月 3 2008
時間と別れるための50の方法(33)
●次元観察子ψ5~ψ6へ向かうための前準備
さて、再び、次元観察子の解説に戻ります。次元観察子ψ1~ψ2、ψ3~ψ4という概念についていろいろとお話してきましたが、整理の意味も含めて、これらをとりあえず『人神/アドバンスト・エディション』に登場させたNC(ヌースコンストラクション)上でどの部分に当たるかを図示しておきます。
ここに示されたA〜Dの矢印が各次元観察子が構成する球空間の半径に当たる部分だと思って下さい。ψ1の球空間はモノの中心点からモノの表面の見えの部分(表相)へと浮上してくる矢印Aを半径とし、反対にψ2のそれはモノの表面の裏面からモノの中心部に向かう矢印Bを半径としています。
ただし、このときの球空間というのはあくまでもモノを自転させることによって意識に概念化されてくる球空間のことです。モノを自転させると、モノの違った表面が次々と見えてきますよね。その見えを綜合して為されている球空間の概念です。以前のψ1~ψ2の解説のところでも説明したように、観測者がモノの周囲をぐるりと回ることによってその相対運動として見えてくるモノの球空間のことではないので注意して下さい。そのときはモノの背景空間も回転してしまうので、次元観察子としてはψ3~ψ4の領域に入ります。
ψ3の球空間の半径は何度も言ってきたように、モノの背後性に延びていると想定されている直線上の双方向性(O→-∞、-∞→O)になります(矢印C)。この図で直線の双方向性を一本の青い矢印Cで表したのは、ψ3がマクロ方向とミクロ方向を等化している、つまりマクロとミクロの対称性を持っている、ということを意味させるためです。これは知覚正面上でモノの背後に当たる奥行きが一点に潰されているという経験的な事実から言えることです。以前の説明で、ここに主体の位置(ベルクソンのいう「持続」をもった位置)があると仮定し、物理的にはそこに光速度の実質的意味(光のベクトルと考えてもいいと思います)を重ね合わせました。
一方、ψ4の球空間の半径はモノの手前の方向に延びてきて、さらには観測者を貫いてその背後方向へと延びていくと想定されている直線上の双方向性(O*→+∞、+∞→O*)に当たります(矢印D)。ここで示されている矢印Dはψ3の矢印Cとは違い、双方向性を故意に二本の赤い矢印で記しています。
これはψ4にはミクロ方向とマクロ方向というψ1~ψ2が持っている対化が等化できていない、つまり、中和の状態(ψ3が無意識化されているということ)の意味を持たせるためです。ψ4の位置には実際には主体には見えるはずのない「自分の顔面」や背後というイメージが鏡像として想定されており、その想定のために顔面とモノの間に想像的な亀裂が生じています。いわゆる主客分離感覚です。僕らが素朴に「主体(見てるもの)」と「客体(見られているもの)」と呼んでいるのは、こうした亀裂によって生じたこの二本の矢印が指し示すノエマ(意識対象)ではないかと考えられます。わたし→もの→わたし→もの→わたし→もの………というように、中和が持った意識の反復がここに生じています。
何度も言うように、ψ4という中和が先手を持たされた意識においては、真の主体として形作られている等化(ψ3)が無意識化されてしまっているので、ψ1~ψ2領域での球空間の概念がそっくりそのままψ4~ψ3(偶数系と奇数系の逆転に注意)の球空間に覆いかぶさるように侵入してしまいます。モノの内部性と外部性を分け隔てている次元境界の意味が全く無視され、ともに3次元座標という空間概念で一括りにさせられてしまうのです。そして、ψ4が先手を打った意識には、この無意識の主体としてのψ3側の球空間は、その3次元座標における原点(微小球体)を規定する位置概念として現れてくることになります(ψ3の半径が無限小の長さに縮められていたことを思い出して下さい)。
皆さんの意識の中にも、目の前に現れた空間のいろいろな場所に、ここ、そこ、あそこ、とか言って、位置を点概念で打っている指示作用が働いているのが分るでしょう。その動き回っている点が実は主体=ψ3そのものだということです。そして、主体概念をそっくりそのままその点の方へと移動させることをヌース理論では「位置の交換」と呼びます。これは今までの僕らの思考様式から言えば、客体を主体と見なすということと同意です。
さて、こうした相互反転関係にあるψ3とψ4の球空間を対化と見なし、次の等化へと持っていくのが次元観察子ψ5の球空間の役割だということになります。当然、もしψ5が意識に顕在化してくれば、その反映と呼ばれるψ6も自然と形を露にしてくることでしょう。これは余談ですが、OCOT情報ではなぜかこのψ5の球空間の顕在化のことを「位置の等化」と呼んでとても重要視しています。「位置の等化」は「人間の最終構成」という概念と直結しており、位置の等化によって人間という次元は終わりを迎える、とまで言っています。そして、それは1999年の太陽系のグランド・クロスに反映されている(た)、というのです。まぁ、この文面だけ見れば、完全にいっちゃてるオジサンのオカルト言説ですが、実はこうしたことを淡々と語るOCOTの言葉の背景には、単にオカルトとしては片付けられない美的な空間論理が存在しています。その全貌をこの段階で一言で要約するのはとても無理なので、ここでは簡単に、ψ5はψ*11の別の現れになっている、とだけ言っておきます(人間の無意識がψ*11までの観察子の推進を押し進めてきた結果、ψ5が顕在化を起こして来たといったような意味です)。ミステリー好きな方は、この言葉の謎解きに挑んでみるといいかもしれません。材料が少なすぎて分らないかなぁ(笑)。まぁ、ψ11についての詳細を説明するときに、このへんの話題は再度取り上げましょう。
『人神/アドバンストエディション』にも書いたように、次元観察子ψ1~ψ8までは、「元止揚空間(ゲンシヨウクウカン)」と呼ばれ、これは人間の意識を活動させていく上での最も基本となる八つの場所性を表す概念です(確か『人神』の脚注欄では、この元止揚空間を胎蔵界曼荼羅の中台八葉院と対応させましたね)。場所ですから単なる入れ物です。入れ物だということは、そこにはまだ何も入ってはいません。ヌースでは次元観察子ψ5を自己として規定しますが、ψ5が自己を表すと言っても、自己が抱いている様々な情念や思考の内容物はそこには含まれてはいません。元止揚空間の顕在化は文字通り人間の意識活動の終焉を意味しているので、変換人の思考に入るときは、人間として蓄えてきた無数の表象はすべて括弧の中に括り、そのまま保留しておく必要があります。ですから、ここでいう自己とは、自己という存在を規定するための枠取り、フレームのようなものとして解釈して下さい。全くプレーンな純粋な器のみです。同様に、次元観察子のψ1~ψ2やψ3~ψ4という概念も、それぞれモノの内部と外部という概念を設定するための場所性の概念であって何か具体的な物を指し示しているわけではありません。そこに具体的な事物が収まってくるのは、観察子構造のさらなる発展を待たなくてはなりません。
こういう言い方をすると、ヌース理論は訳が分からん、実生活に何の役にも立たねぇー、所詮、概念のお遊びよ、などと皆さんの厳しいご批判を受けてしまいそうですが、ヌース理論は人間ではない何か全く別のものを作ろうとしている作業ですから、致し方ありません。興味のある方だけが思考のお遊びと思ってつき合っていただければそれで十分です。
能書きはほどほどにして、ψ5~ψ6の幾何学的構成の具体的な解説に移りましょう。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 3 • Tags: ベルクソン, 人間の最終構成, 人類が神を見る日, 位置の交換, 位置の等化, 元止揚空間, 表相