8月 1 2005
第10惑星ペルセポネー
カフェ・ネプでも話題になっている話題だが、カリフォルニア工科大学のブラウン(Mike Brown)博士らの研究チームが、太陽系で10番目の惑星の可能性がある候補天体(仮名称「2003UB313」)を発見したことを公表した。何でも大きさが冥王星の1.5倍ほどあるらしく、今後、国際天文学連合で討議され、正式な第10惑星とするかどうかかが決定されるらしい。
http://www.asahi.com/international/update/0730/009.html
ヌースファンの方はよくご存知かと思うが、ヌース理論では第10惑星の発見を人間の意識進化の吉兆として伝えてきた経緯がある。拙著「シリウス革命」でも、2013年までに第10惑星が発見されるだろうという予想も記した。今回、発見されたこの天体が第10惑星であれば、それなりにおめでたいことではあるが、個人的な直観としては、まだまだこころもとない感じがしないでもない。別にこれといった根拠があるわけでもないのだが、第10惑星にしてはちょっと地味な感じを受けるのだ。第10惑星の発見はもっともっと華々しい花火のようなイメージでなければならない。わたしが勝手にそう妄想しているだけのことなのだが………。
第10惑星の出現の意味。それは人間の歴史がプルートー的危機から脱し、真の未来へのステップへと歩み出すことの証だ。プルートー的危機とは、1930年(冥王星の発見年)以降、量子論や核開発が世界にもたらしてきた人類の危機的状況を意味する。量子論からは認識の危機、核開発からは生命の危機がもたらされた。この状況は、むろん、現在でも続いてはいるが、その終わりを告げる福音となるものが第10惑星なのである。
今回の天体の是非はともかく、いずれにしろ、近い将来、第10惑星は必ずや登場してくることになるだろう。その正式名称は勝手ながら「ペルセポネー」がいい。ペルセポネーとはギリシア神話に登場する冥界の王プルートーの妻の名だ。ヌース的には定質(Ω11)が冥王星に対応しているので、その反映の性質(Ω12)が第10惑星の力ということになる。その姿を顕在化させるのはヌース的文脈ではΩ13ということになる。
神話では、ペルセポネーは元来「乙女(コレー/Kore )」と呼ばれる美しい娘だった。その美しさに目をつけたブルートーが強引に冥府に幽閉し、自分の妻としたのだ。ここで、ちょっと映画「マトリックス」を思い出してみよう。アーキテクト(神)が作った原プログラムであるメロビンジアンの妻が確かペルセポネー(英語読みでは「パーセフォネー」)という名前になっていた。モニカ・ベルッチが演じていたあの妖艶な美女である。この命名はかなり的を射ている。メロビンジアンとはマトリックスを動かす原プログラムのことだった。このプログラムは人間の性欲を支配し、物質的欲望を加速度的に助長させていく働きを持つ。まさにプルートーの役割と瓜二つだ。美しい妻ペルセポネーはそうした夫を嫌ってはいるものの、表立って反抗することはできない。しかし、彼女はネオが現れることによって、彼の魅力に惹かれ、メロビンジアンをいとも簡単に裏切る。
神話でも、冥府の妃神ペルセポネーは地下の顔と地上の顔を持つ。地下の顔は恐ろしい化物や怪物を生み出す夜の女王としての顔だが、一方、地上の顔は豊かな収穫の乙女のそれである。地下の顔とは月、地上の顔とは第10惑星。地上の顔としての乙女ペルセポネーが行う収穫とは、実は魂の収穫のことだ。つまり、第10惑星とは人間の魂の収穫のために現れる惑星なのである。最終構成から方向覚醒へ。プルートー的危機の後にはそうしたペルセポネーの時代がやってくることだろう。
ペルセポネーの地上の顔である第10惑星、そしてその地下の顔である月。ドゴン族の神話では、「10番目の月」が現れるときに、シリウス星系からノンモと呼ばれる水陸両生類が地球に飛来してくるという。何でも、ドゴン族自身が過去、この地球に飛来してきたノンモの子孫であり、長い年月を経て、再び、彼らを迎えにやってくるというのだ。ノンモ、シリウス、両生類。。すべてのナゾはペルセポネーの出現とともにおのずと解かれていくことになるはずだ。言うまでもないことだが、人間は今なお、魚である。
2月 3 2006
シリウス革命、再版!!
拙著「シリウス革命」が再度、版を重ねるという報告をT出版から受ける。これで第4版目だ。初版、第2版とたしか3000部づつの増刷で、第三版が2000部だったので、この第4版目で累計1万部を突破したことになる。よく頑張ってくれているシリ革ちゃん。時間はかかってはいるものの、3200円という本体価格、650に上らんとするページ数、内容も決して大衆的と言えるものではない。そうしたハンディをかかえて1万部とは。。セールスという観点からすれば、低次元でのつぶやきだが、実にうれしい。
少数のオタクマーケットが乱立するポストモダン市場においては、こうした売れ方もアリなのだ。版元のT出版によれば、「シリウス革命」はコンスタントにロングセラーを続けているとのこと。初版が1999年。第二版が2000年。第三版が2005年。第四版が2006年。2001年から2004年までの間は、T出版側の諸事情もあって、再版が控えられていたが、いざ再版してみると着実に売れていっているらしく、今後もこのペースは衰えないだろうという予測だった。これからも全国書店のT出版の書籍コーナーには「シリウス革命」が常備されていくことになるだろう。
トンデモ本というレッテルが貼られてはいるものの、自著がロングセラーになるというのはとても嬉しいものだ。たとえ年間1000部の売れ行きでもいい、それが20年間続いていくことの方が、いきなり数万部のベストセラーを出すよりは遥かに価値があることだと自分では勝手に思っている。
今の時代、情報の消費されるスピードは驚異的に早い。情報が言語で記されるものである限り、いかなる情報も「語り」の範疇にある。言葉や文字の羅列を他者の「語り」として置き換えてイメージできた時にこそ、情報の本当の価値が見えてくる。他者の語りには「語ること」と「語られたこと」の二つの種族がある。それが僕の持論である。
「語られたこと」とは、意味が言葉そのものに託されているような平面的な語りのことである。この場合、語りは一つの商品のようにして消費され、図書館や公文書やデータベースの中を賑わしている他の知とともに知の履歴として、言葉の博物館に所蔵されることになる。ただ、語りの履歴として保管されるだけだ。
「語ること」とは、それとは全く次元の違う行為である。語ることそのものにおいて宇宙の生成が為されるような語り、それが「語ること」だ。ヌースにとって、宇宙とは自己と他者の間にある無限の距離を持つ回廊空間のことである。語りはこの回廊に言霊を響かせることがなければ何の意味も持たない。「語られたこと」はこうした実存の場には何一つ触れられず、ただただデータベースの中で記録として残るだけだが、「語ること」は、そのまま生命の内奥の中に入り込み、宇宙の生成の律動に微量ながらも永遠の糧を補給する。
僕なりに思うのは、長い間売れ続ける本には、こうした糧が多少なりとも含まれている。ただの流行や情報の集積本などに一体どれほどの価値があろうか。あらゆる知識が言葉から成立するものであるのならば、知識は新たな命の種子であるべきだ。収穫は別に100年後だって1000年後だって構わないのである。ただただ生きる「今」を種子として、言葉を紡いでいくこと。そういう書物がもっとたくさん出てきて欲しいものだ。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 2 • Tags: シリウス革命