8月 4 2017
【ヌースの基本概念】人間の外面と内面の発見がもたらしてくる世界の全体像について
今回は少し長くなるかもしれないけど、人間の外面と内面が見えてきたときに人間という存在がどのようなものに見えてくるかという話を少ししてみるね。
ヌーソロジーが語るトランスフォーマー型ゲシュタルトというのは、人間の空間認識のあり方を3次元的なものから4次元的なものへと変えていくことを言うのだけど、この4次元は単なる4次元ではなくて、複素2次元という4次元(複素1次元は複素平面という2次元になってる)のことなんだよね。
で、そのために最初にやらなくちゃいけないことが、奥行きと幅の差異化。「奥行きを虚軸、幅を実軸と見なす」という、いつも言っているやつ。で、自己と他者の間では双方が互いに逆になってる。結果、複素2次元のベースが完成する。人間の外面と内面が見えてくると、こうして世界は四値化してくるってこと。まずはここを押さえとくことが大事。
で、こうした仮定が何を引き起こしてくるかというと、物質と精神がもはや区別できないような全く別の世界を人間の認識に経験させていく、ということなんだ。いわゆる「物自体の世界」のこと。これも物理学が物質の根底に複素空間を発見したからこそできることなんだけどね。
これは宇宙の正しい在り方に人間の”思考”が初めて参入する事件、と言ってもいいかもしれない。時間と空間という3次元的な枠組みでしかものを見れなかった人間が自らの認識の限界を突破するということの意味を持っている。
これをストレートに量子力学的世界観とも言い換えていいんだけど、量子力学自体はまだまだ物質的世界観の中で閉じているから、そこに登場する複素空間の虚軸側に「精神(持続)」の位置を仮定することによって、それを同時に僕らの精神世界をも記述する学問へとメタモルフォーゼさせることができてくるわけだね。
さて、この量子力学には古典物理とは全く違ったいくつかの公理(基礎的原理のようなもの)がある。「量子状態と重ね合わせの原理」とか、「波動関数の確率解釈」とか、「物理量はすべて演算子になる」とか、全部で7つぐらいあるかな。
ヌーソロジーでは、もちろん、これら一つ一つの公理が何を意味しているかについて、空間認識の観点から詳しく話していくんだけど、こうした公理の中でも、一番重要に感じているのが、「交換関係における差異xp-px=iℏ」というヤツなのね(xは位置、pは運動量、iℏは虚数×ディラック定数)。
物理学の言葉だと難しく聞こえるかもしれないけど、トランスフォーマー型ゲシュタルトを通してこの公理の意味を見ると、これは、僕ら一人一人の実存に関わるとてもとても重要な公理と言っていいものになってくるんだよね。
それは、xを幅の世界、pを奥行きの世界と置いて、この交換関係の式を眺めてみるとすぐに分かってくる。つまり、xp-px=iℏという数式が意味しているのは、x(幅)を先手に持った世界(=xp)と、p(奥行き)を先手に持った世界(=px)の間には、iℏという差異がある——ということを言っている。
前々回挙げた、人間の内面と外面の図で比較すると、このことの意味がよりハッキリとイメージできると思うので、再掲しとくね。
xが実軸(見られるもの=幅)、pが虚軸(見るもの=奥行き)だと考えるといいよ。とすると、この交換関係の式は見られるもの先手の世界と見るもの先手の世界との差異を表していることになる。いわば客観と主観の中点のようなものだね。
もちろん、通常の3次元認識では、こうした差異はでてこない。見るものと見られるものは共に見られるもの=物質として一緒くたになって、それを分けているものが何かも全く分からないでいる。まぁ、それをいつも同一性の世界と呼んでいるわけだけどね。
で、問題はこのxp-px=iℏにおけるiℏとは何か、ということ——。
昔、量子力学に対するこうした分析が進む以前に、OCOTに「iℏとは何なのですか」と聞いたことがあるんだ。そしたら、OCOTは「表相の位置のことです」と答えてきた。
「表相」………表相とは、人間の知覚に「一つのものの見え」を作っている空間の次元のことを言う。これも、イメージしやすいように図を載せとくよ。下図下参照。
つまり、目の前に世界が現れてくる、そのときの現象の位置といったような意味になる。で、この表相は僕ら一人一人が持っている虚軸i(奥行き)との関連において初めて生まれているもののことなんだよね。で、これは客観と主観の中点のようなものだから、見るものもいなければ見られるものもいない。そんな中立地帯になっている。
で、OCOT情報は次のように続けたんだ。「表相は次元において最もミクロなものと最もマクロなものを重ね合わせています」………。
さて、この言葉の意味、どういうことか分かるかい?
「現象の位置が表相」なのだけど、僕ら人間における表象は「現象を受け取っているところの表相」になっている。だよね。「一つの物の見え」と言っても、そこには鉱物もあれば、植物、動物もあれば、他者の顔だってある。実にいろいろな現象が、表相において「物」として立ち上がってきている。
で、そういう物の多様性は、もとはと言えば、素粒子から始まったものだと物理学は教えている。。。
実際、素粒子レベルの構造においても、このAB−BAという交換関係の構造というのは、いろいろなレベルで働いていて、まさに双子世界が織りなす差異の織物のようにして物質が組織化されていく様を垣間見ることができるんだ。
まぁ、このへんはまだ類推でしかないんだけど、おそらく、OCOTがここで言っている「最もマクロなものが重なっている表相」とは、人間の表相にその組織化の全体を「与えている側の表相」ということの意味なんだろうと思っている。
つまり、「世界を受け取る表相」と「世界を与える表相」というものが存在しているということ。。
いいかい、このビジョンは極めて重要なことを語っていると思って欲しいんだ。この最初の表相から最後の表相に至る道程の中に物質を創造していく精神の運動が延々と続いているわけだけど、この道程は、僕ら一人一人の人間の中ですべて閉じている。つまり、そこには「窓がない」。個体の内部世界なわけだ。
その意味でxp-px=iℏは世界が個体化の原理の下に成り立っていることの証しと考えられる。幅先手の世界(物質)と奥行き先手の世界(精神)は決して対等ではなく、そこには精神(iℏ)のわずかな過剰があるということ。それが世界がこうして個のもとに現れる理由にもなっているということ。
では、なぜ、人間の生きる世界では、類や種の中の個(人間でいうなら人類、人種や民族の中の個人)という括りで、全体性が猛威を振るってしまうのか——。戦争なんかはその典型だよね。
複素空間認識が生まれてくると、この理由もはっきりと分かってくるんだよね。それは、自己が他者側の奥行き認識に合わせて、自分の奥行きをも重ね合わせているから。これが、いつも言ってる「他者構造」ってやつなの。時間と空間もそこに生まれてくる。せっかく4値化していた世界が二元化の世界に変わってしまうんだね。
シオリズムのいうところの「ツルツルとした球面を持った球体の世界」がそこに現れるわけだ。ここで作り出される連続面はあくまでも「幻想としての全体」であって、それはそれぞれの個が精神の方向を失ったところに出現する闇側の深淵と称していいようなものなんだよね。
民族主義や国家主義などといった全体を先行させようとするイデオロギーも、こうした他者構造が送り出しているもので、その意味では、それらは実体(精神)を宿したものじゃないと言っていいんじゃないかな。いかにそれらしく精神を標榜していたとしても、物質的世界観の傀儡のようなものにすぎない。そう思うよ。
説明が足りないので、まだまだイメージするのが難しいかもしれないけど、 結論だけを言っておくと、それぞれの人がそれぞれの中にこのiℏで繋がれた創造と被造の円環世界を発見していかないといけない。そのときに現れるのが地球と人間との真実の関係、ということになるね。シオリズムにいう「トゲトゲの地球」ってやつだ。
地球の上に一人一人の人間が直立して現れているだろ。
全体は存在しない。全体とは個なんだよ。
真実の世界にあるのは個の連帯のみ。
そして、それは全体ではない、ってことだね。
真実の地球がまたそれに気づいたから、また、人間が直立し始めるよ。それが本来のオリオンとプレアデスの関係と言っていいね。
オリオン星としての地球の活動が再開する。
『人神』の最後に書いたよね。——地球はまもなくオリオン星になる——って。その意味だね。
20年かけて、やっと分かったよ(笑)
8月 30 2017
物質と精神のつながりをイメージしながら自我についても考えていくこと
水平性の中に突き刺さっている垂直性。それが物質です。まずはこうした構図を設定しないと、自然の謎は決して分かりません。ここでいう水平性とは時間と空間のことです。物質の起源は時空の中にはありません。20世紀になって登場してきた量子論はそのことを明らかにしてきたのだと思います。
この前のアトリウムでは、こうした量子のことをシュタイナーの予言にあやかって「エーテル界のキリスト」として話しました。
物質的知性のクセは量子を対象として見たがります。それをやらせているのは、言うまでもなく、幅化した奥行きです。物理学的思考はなかなかこの「幅化した奥行き」の呪縛を払拭できません。奥行きに幅が入ると、本来の奥行きは一瞬でズームアウトされ、ミクロ世界の中に観察されてしまいます。
主客分離という悲劇が発生するのも、まさにその瞬間なんですね。
そして、この主客分離の領域をフランチャイズとして生きているのが、私たち人間の自我です(シュタイナーのいう自我とは意味合いが違うので注意)。
シュタイナーは「エーテル界のキリスト」の登場は1930〜40年ぐらいになると言っていました。そして、それは知的な営みの中において現れるとも。
シュタイナーは、このキリストの存在はアーリマン的なものとルシファー的なものの調停者として現れてくると言います。シュタイナーのいうアーリマンとルシファーとは、簡単に言えば人間の中に潜む二つの悪のタイプのことです。この二つの悪は、象徴的に言うなら、科学的悪と宗教的悪とも言っていいものです。
その意味で、一応、アーリマン的なものを、私たち人間の客観的な意識に潜む悪としましょう。これは科学的唯物論などをイメージするといいと思います。
一方、ルシファー的なものを主観的な意識に潜む悪と考えてみましょう。これは、宗教的な超越主義や、それが引き起こす幻想の類のようなものです。
そのように仮定するなら、今度、私たちの眼の前に出現してくるキリストは、主観的とも客観的とも呼べないような、奇怪なものとして現れてくるはずです。なぜなら、それは、主観と客観を調停する存在形態を持っているはずですから。
そうした奇怪な存在が果たして、1930〜40年辺りに「知的に」登場してきたか。。。ヌーソロジーはこの問いに「然り!!」と答えます。
量子ですね。量子こそシュタイナーが予言した「エーテル界のキリスト」。そのように考えるわけです。
問題は、量子を相も変わらず、物質として見ようとしてしまう人間の認識が持った頑ななクセです。量子が物質の存在形態を持っていないことはすでに分かっているにもかかわらず、相も変わらず物質というフィールドの中に監禁したままにしている。
量子を外的に見ることは、そろそろヤメにして、内的に見ることを開始してはどうでしょうか。そうすれば、知的に登場してきたエーテル界におけるキリストは、エーテル形姿として、今度は私たちのエーテル知覚の中にはっきりと姿を現してくるはずです。人間すべての内在性の中にキリストは生きているんですね。宇宙の始源(アルケー)として。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 1 • Tags: エーテル, シュタイナー, 量子力学