5月 11 2005
OR体としての生命
前回の書き込みのあとに引き続き書いたこと。
見える世界がわたしの身体——生きのいい哲学や宗教であれば、主体=客体、客体=主体という主張は必ずと言っていいほどなされてきた。しかし、ここで彼らは一体何が言いたかったのだろうか。実は、その先を具体的に記した思想はない。というか、その先は大方が言語や理性では触れられない聖域なのだと語られ、無意識は意識的に隠蔽されているのだ。FUCK YOU!! 問題はそこから先だ。主客一体の情景を目撃した者なら、そこから何をなすべきかぐらい見えてもらはないと困る——。ここは当然、新たな主体と客体の創成にかからなければ、ことは始まらないだろう。そうしたものが見えてこそ、真に幻視者(ヴィジョニスト)の名に値するのだ。
空間は決して身体を入れる容器のようなものではない。そのような空間は他者の眼差しに晒された偽りの空間である。といって、身体が空間に先行しているというわけでもない。それらは物質と精神の関係と同じく、同一のものが異なる二つの側面へと分離しているだけなのである。この分離をヌースでは人間の内面と外面と呼ぶ。言い換えれば、人間の内面とは世界として想像されている世界(内面=言語)であり、人間の外面とは世界として知覚されている世界(外面=現象)のことである。この両者にある距離を巡って、闇と光、つまり、見えないもの(客体=内面)と見えるもの(主体=外面)とが生まれ、さらには、そこに自他という鏡像性が加味され、豊穣なキアスム的拮抗作用が営まれているのだ。これらの全構図を新たな幾何学的身体として客体化させ、それを観察する精神を新時代の新たな主体性として擁立させ、これら新たな二つの身体性を新たな宇宙のヤキンとポアズの柱として再構成し直すこと。ヌースはそれをやろうと目論んでいる。
とにかく、対象から広がる空間(人間の内面)と、身体から広がる空間(人間の外面)の区別を徹底して意識しよう。この両者の間には同一化不能な存在論的膜がある。それは、物質的には無生物と生物を隔て、哲学的には存在者と存在を隔てる膜となっている。およそ魂全般は好むと好まざるとに関わらず、必ずやこの膜を通して呼吸することを義務づけられている。金かそれとも愛か。裏切りかそれとも忠誠か。苦痛かそれとも快楽か、生きるべきか死すべきか——迷い、逡巡、躊躇、戸惑い——こころのゆらぎとして現れているこうした現象はすべて魂の呼吸なのだ。魂はこうした「OR」の命題を自らに投げ掛けることによって、そのつど何かを吸収し何かを排泄しているのである。その意味で、この「OR」は有機体(OR-gan)の略記号と見なすこともできる。OR体は差異が見えないという点では哀れな存在だ。しかし、この哀れさが「永遠に続く」という意味であれば、それは逆に力強い反復力とも言える。宇宙の生命力はこの哀れさと強靭さの二つのアンビバレントな要素によって育まれていく。
以前もどこかで触れたと思うが、ユダヤ教のミドラーシュは、こうしたORの在り方に二つの存在形式を与えている。それは、光を表す「OR」と皮膚を表す「OR」である。ミドラーシュによれば、ジェンダーの原初的分裂の際に光は皮膚へと変化する。それは光を皮膚とするような実在の身体の存在をほのめかしている。そして、その実在の身体こそがほんとうの女性存在と呼べるものなのである。ほんとうの女性(女性という性を生み出した力の本質)は、その意味でまだこの地上には出現していない。それを人知れず生み出すのがヌースに託された作業と言っても過言ではない。
10月 10 2005
「知の欺瞞」
カフェネプでトーラス氏が話題にしていた「ウィングメーカー」を本屋に探しに行ったが見つからず、そのままふらふら科学哲学書のコーナーへ。以前から読まないといけない本としてリストに上げていたアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの書いた「知の欺瞞」を購入。
この「知の欺瞞」は、ヌース理論でもおなじみのドゥルーズ=ガタリ、ラカンを始め、クリステヴァやヴィリリオ、ボードリヤールといったポストモダン思想の論客たちの数理科学的知識の濫用、誤用を、専門の物理学者の立場から手厳しく批判した書として、数年前に欧米や日本で話題になった本である。この本の内容についてはインターネット関連の情報でちょくちょく見かけていたので、レベルはかなり異なるが、同じく数理科学的知識の濫用で、時折、やり玉に上がるヌース理論の展開にとっても無関係とは思えず、それなりに気になっていた本でもあった。
で、読んでみた感想だが、最高に笑える本である。これは言い換えれば「あちら版ト学会もの」だ。ト学会の連中と同じく、ソーカル=ブリクモンのコンビは予想していたほどガチガチの理科系頭ではなく、謙虚で、かつ、ギャグセンスがかなりいかした人物のような印象を持った。性格的には、少なくともラカンよりは好感が持てる。彼らのギャグセンスの精妙さは引用しないと分かってもらえないと思うので、長文になるが少し抜粋させてもらう。
まずはラカンの1960年のセミナーからの引用を挙げ、
このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また、心像としてでもなく、欲求された心像に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現のの欠如の機能、つまり、(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。(Lacan 1977b,pp.318-320、佐々木他訳 pp.334-336)
続いてこう記す。
正直にいって、われらが勃起性の器官が√-1と等価などといわれると心穏やかではいられない。映画「スリーパー」の中で脳を再プログラムされそうになって「おれの脳にさわるな、そいつはぼくの二番目にお気に入りの器官なんだ ! 」と抗うウッディ・アレンを思い出させる。
うーむ、かなり洗練されたギャグセンスである。しかし、ただ残念なことに、ソーカルには精神分析一般についての基礎知識が欠如しているように思われる。勃起というとすぐにもろオチンチンを想像するのは致し方ないことではあるが、ラカンがファルス(男根)と言えば、それは言語の機能のことであって、別に、実際のオチンチンのことなんかではない(まぁ、こんなことは知っているかもしれないが)。さらに、どうして言語機能に対してファルスという名称が与えられているかと言えば、そこには、古来よりユダヤ教の中に受け継がれている言葉と神の関係に関する対する深い洞察があるからなのだ。こうしたユダヤ的ロゴスの伝統が分からなければ、ラカンがここで何を語ろうとしているかなど、まず分からない。
ラカンの書く文章は、確かに、その博覧強記も手伝って、謎の呪文のように見えるときもある。しかし、何しろ相手はフロイトとソシュールを結合させた、無意識構造の語り部としては世界最強の達人なのである。それこそ、圧縮や隠喩や換喩はお家芸なのだ。それにここに引用されているセミナーでの講義内容も別に一般人向けに行っているものでもない。あくまでも精神分析に興味持つ生徒たちを相手にしたものだ。故意にナゾかけのように話し、その謎解きはそれぞれの出席者に任せる。そういったスタイルをとったところで何ら不思議はない。ラカン自身、「主人の語り」「大学の語り」「分析家の語り」「ヒステリーの語り」という四種類の言語の在り方を模索している。
その意味で、数学的知識の枠の中のみから、つまり、「大学の語り」の中からのみ、ラカンの数学的知識の濫用を批判してもあまり意味あることではないようにも思える。ドゥルーズ=ガタリもそうだったが、語り方自体、さらには書き方自体の中でも、彼らは自己同一性の解体作業を試みているのだ。科学が啓蒙を旨とする具体的説明の方法をとるのに対し、ポストモダンは啓蒙についてはあまり関心がない。すでに思考が旧い器から溢れているのである。
はてはて、ヌースはどっちの方法論を取るべきか。。未だ迷うところではあるが。ぶつぶつ。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 9 • Tags: ドゥルーズ, フロイト, ユダヤ, ラカン, ロゴス