2月 18 2019
ハイデガー哲学とOCOT情報をミックスして語ってみる
ハイデガーが言ってることはOCOT情報とほとんど同じ。
まず、ハイデガーのいう脱自(非本来的な自己の外へと抜け出し存在を了解すること)はOCOT情報でいう「付帯質の内面の顕在化」に相当してる。
これは、いつも言ってるように「幅化している奥行きの下に潜む持続としての奥行きに根源的時間を見出すこと」を意味している。
このとき生まれる奥行きの力のことをOCOT情報は「形質」と呼んでる。
形質とは持続空間で活動する形相としての精神のこと。
形質が働き始めることによって、核質(物質概念)は中和されていく。
これは、ハイデガー的にいうなら、存在者の思考から存在の思考へと遷移していくということ。
存在の思考とは、OCOT情報の文脈からすれば複素空間認識が始まることによって、対象的思考の働きが減衰していくことを意味している。
数学でいう複素平面は「形質の対化」に相当している。
形質の対化が生まれると、そこから精神は形質の等化に向けて動きだす。
そして、この「形質の等化」が「カタチ」を作り出すと言う。
「形質の等化」とは、分かりやすく言うなら、奥行きが幅側へと捻れることを意味してる。この捩れは物理学的にはクォークのスピノルのSU(2)を意味してる。
SU(2)が持ったこの捩れが物の起源(核子)となってる。
このSU(2)から僕らが時間と空間と呼んでいるものが現れてくる。
つまり、SU(2) という運動によって、物と時空が、隠れと現れを同時に併せ持つようなかたちで作り出されてくるわけだ。
物を物自身の方から現れてくるとおりに、物自身の方から見えるようにする―これがハイデガーのいうエルアイグニス(性起)の数学的仕組みになっている。
この「現れ」と「隠れ」は決して断絶したものではなく、付帯質の内面から見れば、単純な同型性に基づいた連続体になっていて、かつ、この同型的な生成の循環は無限に反復していく。この真無限的な反復が物の多様性を生成していっている。
人間の意識はこうした精神の運動に対する反映として生み出されている。そのため、カタチをつくる方ではなく、カタチを対象として見る方向に持っていかされている。生成から追い出され、生成を対象側に見せられる位置に置かれているということだ。
こうした状態をOCOT情報は「形質の中和」と呼んでいる。要は、形質が働いていないということ。これが延長意識に当たると思っていい。時間と空間による幅支配の世界認識だ。
幅認識だと、当然のことながら、SU(2)を認識することができず、その下次元的投影であるSO(3)しか見えない。これは、非局所が局所へと落とされていることを意味するんだけど、持続において思考していないからこういうことになる。
ハイデガー的にいうなら、存在を見ず、存在者ばかり見ているということだね。そして、思考も存在者の域から出ない。
OCOT情報から見るなら、ハイデガーは正しいことを言ってる。
でも、ハイデガーの表現は晩年まで可能態のままで、現実態にはなっていない。
だから、「かろうじて神のごときものだけが我々を救いうる」なんてことを言ってしまう。
これはいかんよ。だから、神秘主義や信仰主義って揶揄されるわけだね。
※下左イラストは堀内亜紀さんの作品「大物主」をお借りしています。OCOTをキャラ化したときのイメージだよ^^
2月 20 2019
「結び」と素粒子
時空という場所から素粒子について思考するのではなく、わたしたちを一度、素粒子という場に置いて、そこから時空について思考することが必要だ。その方法だけが内的に外が見れる知性の発生を可能にする。ハイデガーが言うように世界を正しく認識するためには、このような「転回=反転」が必要なのだ。
わたしたちが時空と呼んでいる場所は「すでに構築されたところにあるコミュニケーション・プラットフォーム」にすぎず、そこで自他が対等に繋がれる可能性は残念ながらゼロに等しい。ヘーゲルが言うように、自他関係はそこでは主奴関係に向けて収斂していく。それは今の世界の現状を見れば明らかだ。
自他間の対等な出会いとは、「転回=反転」において初めて起こる。こうした出会いを古神道でいう「結び(産霊)」に重ね合わせてイメージすると面白いかもしれない。空間化した時間(持続空間)を自他の間で結び合うこと。その結び目が何度も巡ることにより、物質としての自然が現象化しているのだ。また、そこに高次世界の本質がある。
「結び」はギリシア風に言うなら生成のことでもあるから、これはハイデガーのいうアレーテイアの身振りと言っていいものになる。
数学的にはn次元の結び目は(n+2)次元によって可能になると言われている。たとえば、一次元のヒモが結び目を作るためには、まずはヒモを輪っか状にして(2次元方向)、そして、ズラす(3次元方向)必要がある。「結び=産霊」の場合は3次元空間そのものを一本のヒモと見て結び合せる。
つまり、大雑把に言えば、4次元方向で輪っかを作り、5次元方向でずらして、そこに結び目=物質が現れるということになる。ハイデガーのいう「隠されたものが自分自身をあらわにする」という「アレーテイア=真理」の仕組みを知性で理解するためには、少なくとも5次元の認識が必要になるということだ。
人間の科学技術による生成はこの「結び」が真逆に転倒した場所で起きている。ハイデガーが「ゲシュテル」と呼んでいる機構の体制だ。真逆なのだから、そこで自他が出会う可能性は全くない。近代という意識回路自体が、自己が自分自身を他者化させていることによる言わば「ひっくり返ったアレーテイア」の仕組みなのだから、科学技術の進歩は自他関係をますますよそよそしくしていく方向に働いてしまうのだ。
それだけじゃない。この場所では、人間は自他もろとも、ハイデガー言うところの用象(生産のための対象)となり果て、技術のための道具にすぎなくなってくる。労働資本としての人間。生産に寄与する人間。まさに資本主義という反自然力の支配に人間は駆り立てられ、今では人間は存在の牧人という位置からは遠く離れ、人間ならざるものと化してきている。
この危機的状況にどれだけ意識的になれるかは、時空を素粒子側から見れるかどうかにかかっている。というのも、素粒子こそが「存在」だからだ。その意味でも、原子力や量子コンピュータなど、素粒子を用象と見なすことは極力差し控えるべきだろう。意識がその局面に入るということは、存在側が人間を切り離すことと同じ意味を持っていると考えられるからだ。
いや、技術は否定されるべきものではなく、回りまわってくる人間の命運でもあるので、より正確に言うなら、素粒子が用象となるところまで時代が進んできているのなら、同時に、人間は素粒子を存在として開く時期に来ているということだ。その二つの方向が揃い踏みしてこそ、存在のバランスはかろうじて保たれる。そして、それが今から訪れてくる新世界だということになるのだろう。
無論、ヌーソロジーは後者の作業に関わっている。
いずれにせよ、意識が「人間」である時代は終焉を迎えている。やがてやってくる新たなる時代が「開けて」おめでたいかどうかは、これからのわたしたちの思考態度に懸かっている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: アレーテイア, ハイデガー, 素粒子