3月 24 2020
ヘキサチューブル談義3
ヘキサチューブル談義3をyoutubeにUPしました。ヌーソロジーの、特に空間認識の仕方について関心がある方は是非ご覧になってください。
ヘキサチューブルの構造は数学的には4次元空間の捻じれによって構成されています。
この捻じれは、自他間における〈見る—見られる〉の捻じれのことを意味しており、意識において〈見る〉が先行するか、〈見られる〉が先行するかによって、空間は内包(素粒子空間側)へと向かうか、外延(時空側)へと向かうかというように、方向が大きく二つに分離しています。ヌーソロジーのいう定質と性質ですね。
〈見る—見られる〉のどちらを先手に持つかによって空間が素粒子方向と時空方向に分かれるということは、世界は4次元の鏡の原理をその基盤にしていることを意味しています。ヘキサチューブルとはその鏡の原理が具体的にどのような構成を持って働いているかを幾何学的に示したものと言えるでしょう。
ヘキサチューブルの構造が、空間感覚を伴ってある程度理解できてくると、現象に対する感受性が根底から変わってきます。興味がある方は是非、この空間へのジャックインにチャレンジされてみてください。
4次元の持続空間に思考が侵入することは自分を存在へと入り込ませることでもあるので、このインの思考は存在者を存在させているという贈与の感覚を意識にもたらしてきます。
自らを自らに送り届けること。無意識においては誰でも自分の中にこうした与える者と受け取る者の双方向のフローを持っています。そのフローを成長させていくために、存在は自己と他者を生成のための鏡として用意したとも言えるでしょう。このフローは、他のフローを想像的に取り込みながら、つねに単独者として流れ続けています。その意味て言えば、モナドは決して静的なものではなく、創造的精神の流れとして見た方がよそさうです。
こうしたモナドの発生を、新しい時代の、新しい人間による、新しい欲望のスタイルにできればいいなぁ、と思ってます。
ヘキサチューブル談義、今後も、もう少し続けてみますね。
4月 3 2020
主体と客体のひっくり返り
近現代人は主体と客体の関係がひっくり返っている。本来は見られている側は客体世界であるべきなのに、それが主体側に回ってる。
どういうことか―。
私たちは、普通、肉体を主体と見ている。しかし、肉体とは言うなれば鏡像のようなものだ。肉体を主体と見なすことは、空間でいうなら「後ろ(物の手前を含む)」が主体化していることに同じ。なぜなら、自分の肉体は他者が見ているものであって、他者が見ている空間は自分とっては後ろ側にある空間だから。
肉体を主体と見なしたことによって、本来、主体だった世界(=前)が客体化してしまっている。
もう少し、ストレートな言い方をしてみよう。
今、皆さんの頭の中でごちゃごちゃと思考していること、思考されているもの(言語・概念)は、本来、すべて客体として見なさなければいけないということ。そして、それを見ているのが「前」としての「物」だということ。
単純に、「前が主体、後ろは客体」と表現していいかもしれない。心は前にある。そして、その心とは前にある「物」のことに他ならない。
ここでいう「物」とは、対象化される以前の物質のことと言ってもいい。「対象化」とは後ろが前を客体と見てしまっている様子なのだ。
近代以前、対象という概念はなかった。それは西洋でも同じ。物が対象化されることによって、実は主体と客体が入れ替わったのだ。
再び、物に主体を見ていく感覚を作らないといけない。この感覚は「人間の外面」が顕在化してくると、如実に湧き上がってくる。ヌーソロジーが語る精神の覚醒とはそういうものだと思ってほしい。
もちろん、ここで主体と呼んでいるものは持続(奥行き)のことでもあるわけだが、ヌーソロジーの文脈では、この「前」と「後ろ」に始まる真の身体空間を組織化していっているものが素粒子ということになってくる。
自然が作り出すものとテクノロジーが作り出すものとの違いも、この主客の転倒を考慮すればおおよその察しはつくんじゃないだろうか。テクノロジーは自然を客体としてしか見ない科学的視線の中で、いわば逆さまの生成を世界に被せている。自然は自然そのものが主体となって自身を生成させている。両者は全く別物。
認識を自然と同じ方向に向けること。
私たちは、すでにその時期を迎えている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: 奥行き, 素粒子