10月 11 2022
World View TransformationからSelf Transformationへ
OCOT情報はやたら「変換」という言葉を使いたがるのだが、これは「内的実在への巻き戻しがあるからこそ、世界はこうして存在することができているんだよ」ということの言い換えでもある。この巻き戻しが「変換」であり、それは存在による「返還要請」でもある。破壊されたことによる裏での補完だ。
私たちの目の前に見えている物質的自然のすべてが、実のところ、そのような返還要請を行なっている高次元精神の射影のようなものだ。素粒子はその原初の変換性であり、その変換の場所に私たち人間の意識にとっての超越論的なものの力が流動している。
多くの人が「わたし」の由来を知りたがるが、おそらく、この返還要請としての呼び戻しの声の響きに聴き従うところに人間の個としての「わたし」という存在が生じている。つまりは、人間、誰しもが「存在に召命されし者」なのである。存在における過去と未来の橋渡しとしての「わたし」。
「変換」は「転換」とセットになっている。対化だということだ。これらの概念に一番近いものはおそらく神学で言われる所のアポスタシスとカタスタシスだろう。上方に向かっての生成と下方に向かっての生成という意味だ。双方合わせてアポカタスタシス(万物復興)、これがホメオスタシスを保証する。
自己存在と他者存在は、存在における、この変換性と転換性として出現しているものだ。
ヌーソロジーの思考線はこのアポカタスタシスの思考に貫かれている。万物の復興を目指すものであるから当然と言えば当然だ。ヌースとノスもそのような働きの力の流れとしてイメージするといいかもしれない。
変換性(上方への生成)は転換性(下方への生成)の中においては”物質”として表現されてくる。その意味で、転換に位置を持つ意識にとっては、変換性は物質としての現れのなかに直接内在するような形で現れることになる。物質の根底に素粒子が見えているのも、そのような理由によるものと考えるといい。
素粒子、原子、分子、重合分子といった物質生成の階層は、この変換性と転換性の反復が原因となって生じている。変換性には転換性が見えており、それまでの変換のプロセスを初期条件として、そこから、転換で下へと降りたものを再度変換していくことにより、変換性自体が襞のようにして地層化していく。
こうして最高度の変換性が人間の肉体にまで至る物質階層として、最高度の転換性の前に現れる。それが世界における他者存在と自己存在の本性である。そして、これらはもちろん双対である。
意識を反転させよう。存在は逆方向に回り始めている。
ヌーソロジーのいうWorld View Transformation。少しはイメージが伝わったかな? このWVTがSelf Transfomationを引き起こし、この地上にトランスフォーマーを増殖させていくというのがOCOT情報のシナリオなのだけどね。。
10月 17 2022
もっとダイナミックな思考を持とう!!
私たちは経験的なものを通して遠い過去をもイメージする。たとえば、人間がいなかった頃の世界を、私たちは人間の経験的意識を通して想像してしまう。しかし、それはあくまでも意識経験の結果を通した描像であって、人間以前の風景にはほど遠い。その意味で、ビッグバン宇宙や進化論などいった科学的世界観が作り出した過去の物語は虚構のイマージュで覆い尽くされている。
このことはベルクソンが言う「実在性と可能性」と「現実性と潜在性」の関係によく似ている。可能性の実在化の中で生命が進化してきたと考えることと、潜在性の現実化の中で生命が進化してきたと考えることはまったく違うものだ。前者には差異はなく、後者には差異がある。単なる生物化学の地平では、この差異は見えない。
この差異は時間的には持続の中で、空間的には奥行きの中で活動している。持続と直線的時間という時間の二つのタイプと、奥行きと幅という空間の二つのタイプ、これらが互いにいかに根源的な相補性であるか、私たちはもっと知る必要がある。量子力学に登場する複素平面が表現している実軸と虚軸とは、後者の相補性の数学的表現である。
この幅と奥行きとの差異は、同時に、空間に露出した自己と他者の存在論的差異のことでもあるだろう。自己が奥行きを持つ者としてこうして出現しているということは、自己とは実在に対する差異を持つ存在だということだ。そして、自己はこの差異の中に潜む潜在性を現実化していく力を持っている。
自己が実在に対する差異だということは、自己は時空からハミ出ている存在だということだ。まずはこのことに気づくことが、霊的個体化の世界への入口となる。
知覚・記憶・クオリア等、持続ベースの意識と、言語・記録・数量計算等、延長ベースの意識の場を明確に区別して考えよう。前者はヌーソロジーでいう人間の外面、後者は人間の内面の産物である。
自己存在のそのハミ出しの領域が物理学では複素空間として表現されているのだと考えるといい。〈わたし〉に最も身近なはずの自分の精神の姿が時空上では素粒子として記述されているということ。そして、多くの人がその難解な表現形式のために自己自身を敬遠してしまっているということ。それが今現在、人類に起きていることだ。これは、ある意味、悲劇だ。
物理学では複素空間から時空が生まれていると考えることができる。これは、ベルクソン風に言うなら、潜在的なものから現実化が生じていることを意味している。つまり、時空・物質という私たちが実在的と考えているものも、本当は精神の一つの表現として現実化しているに過ぎない。実在とは現実化されたもののごく一部に過ぎないのだ。
少し考えればすぐに分かる。実在には瞬間しかない-このことを今一度、自らの感覚に叩き込まないといけない。実在をあたかも一つの絵巻物のようにして見せているのは、潜在性として生きている私たちの精神の方なのである。
デカルトの「我思うゆえに、我あり」の〈ある我〉と〈思う我〉の違いも、この実在としての”我”と、潜在的な領域から実在を生み出した”我”との違いに由来している。いわゆる非本来的自己と本来的自己の違いだ。つまり、自己は差異を挟んで上位と下位に分裂したところに自己のシステムを作っているということ。これも、まもなく多くの人に分かってくるだろう。
脳をいくら調べても、自己の由来は決して見えてはこない。自己の生成は宇宙全体におけるトポロジー運動の産出物のようなものであり、局所的な電気信号の産物などではないということだ。宇宙全体を一気に回転させているこのような機構が素粒子だと考えないとダメだ。極大は極小に射影されているのである。
とにかく、ここで言いたかったことは、私たちは自分が考えている以上に、はるかに巨大な存在だということ。近代理性の思考に変に影響を受けることなく、自由にのびのびと思考の羽を広げよう。
私たちは飛べるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: デカルト, ベルクソン, 素粒子, 複素平面, 量子力学