2月 11 2007
ついでに、上と下
ここ2回にわたって、僕らの周囲に広がる左右や前後の空間が、単なる3次元という概念では全く収まりきれないものであるということを話してきた。何分にも走り書きのような文章なので理解しづらい部分もあったと思うが、僕がここで言いたかったのは、人間の空間認識のカタチを考慮に入れれば、4次元に始まる高次元世界というものを僕らは十分に捉えられる知性を持つことは十分に可能だということである。モノを見るのではなく、モノを見ているものを見ること。これがヌース理論でいうところのトランフォーマー型ゲシュタルト(あまりいい命名ではなかったが、まぁ、ヌースはエンターテインメントなので、こうした言い方も許されるだろう)というものだが、これは俗的な言い方をすれば高次元知覚のことに他ならない。高次元は決して空想的なSF小説の世界で描かれているような突拍子もない異形の世界ではなく、生きている僕らとともに、今、此処に同時に息づいている実在の世界なのである。ヌースでは何度も言ってきたことだが、「わたし」の意識の活動を可能にさせている力の在り方自体が高次元の幾何学的構築物となっているということだ。
では、トランスフォーマー型ゲシュタルトにとっての宇宙空間とはどういうものだろう。現在僕らが所持している科学的宇宙観(人間型ゲシュタルト)では宇宙空間の広がりは単にモノの3次元の広がりと何ら変わることはない。宇宙のずぅ〜と先に行こうが、平板的で均質的な3次元空間が無限に広がっているだけだ。そういった認識の在り方では、宇宙空間は時空R(1,3)か、せいぜい膨張時空としてのド・ジッター群S0(1,4)どまりの次元しか持たない。
しかし、何度もいうようにこうした空間の描像は「身体の後ろの空間の集合」にすぎない。前が欠落しているのである。いや、もっというならば、左右や上下も欠落している。現実に見えて、感じられている身体側にとっての宇宙空間には何一つ接触を持っていないのだ。つまり、それはいわば、長い間水の中に沈められ、魚眼と化したナルシスの目によって屈折させられた知識なのである。両生類的生き物であるトランスフォーマーの見方は全く違う。地球を起点としたときのその外部の空間は、当然のことながら、そのすべてが高次元空間である。それは5次元から始まり、無限次元の重なりを持っている。
それはどういうことか——前回、僕は実存としての人間においての前後軸、左右軸はそれぞれ4次元、5次元と考えられると話した。今、大地の上に立って生きている自分自身の前後方向と左右方向をずっと延長させていってみよう。もちろん、実際にそのラインに沿って移動してもいい。僕自身はまだ直接、経験したことはないが、おそらく、それらの方向はどちらも円環状にぴたっと閉じていることだろう。つまり、地球表面は人間の身体の左右と前後の名において球面を形成しているということだ。ここに出現してくる球面は、人間という認識する質点を地球上に配しているという意味において単なる2次元の球面なんかではない。前-後、左-右がそれぞれ4次元と5次元に当たるならば、それは5次元の球面として解釈される必要がある(嗚呼、何と分かり易い5次元か。嗚呼。)。つまり、地球表面は人類全体が意識する前後と左右という空間の方向性で二重にラッピングされているのだ。このラッピングされた球体のことをヌース理論では「覚醒球」と呼んでいる。
3月 6 2008
太陽と月に背いて(2)
(写真はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200504.htmlからお借りしました)
実存の奪回。自分自身の目を見開くこと。ちょっと偉そうなことを言ってるかもしれませんが、このことは必ずしも、他人様に人生の指針を指し示したり、人間がどう生きるべきかを説くなど、宗教的な説教を意味しているわけではありません。そうした立ち位置は僕は基本的に好きではないし、自分の生活態度を振り返っても、人様にそうした提言をできるほど立派な人格者でもないからです。ヌース理論というのは、新しい思考様式を提示するものではあっても、決して人の生き方を説くものなどではないということ、まずはこのことをしっかりと頭に入れておいていただけると助かります。ちょっと誤解を招く言い方になってしまうかもしれませんが、ヌースの思考は社会的現実にはあまり関心がないということです。社会的な現実は現実として社会の中に生きる一個の人間として問題意識を持ち、精一杯、その解決に向けて努力していく。それしかありません。むしろ、一番まずいのは、自分の実存的問題と社会的現実で起きている問題を一緒くたにして、同じ地平で思考してしまうことです。そうした不安定な意識はいとも簡単に政治的なアジテーションに煽動され、社会的現実を思いもよらなかった方向へと向かわせる力になってしまうこともあります。20世紀に起きた2度の大きな戦争もそうした意識の在り方が招いた予想外の惨劇だったと言えないこともありません。
事実、ヌース理論の構築の母胎となったオコツト情報にも、「善を行なえ」だとか「愛が大事である」などといった説教じみた内容は一切ありませんでした。もちろん、ヌース理論が目的とするトランスフォーマー型ゲシュタルトの習得というのは、結果として個々の心情の中に倫理的なものを呼び起こす力を持っているとは感じてはいますが、しかし、そうした内容の方が強調され、メインとなって伝えられていくことには僕自身、とても抵抗があります。というのも、道徳的なものや倫理的なものを求めようとする衝動もまた、人間型ゲシュタルトの範疇ではないかと考えているからです。
ヌース理論が提唱する高次元の思考様式にはおそらく「善」や「愛」といった概念は存在しないのではないかと思います。理由は簡単です。光になると光が見えないように、僕ら自身の意識が愛や倫理の源泉力そのものに変身してしまえば、愛や倫理など存在のしようがないからです。ですから愛の実現の出来事は決して感情的なものとしてはやってこないだろうということが言えます。それはむしろ淡々とした知的作業として進められて行くのではないか。僕の個人的な感覚から言わせていただければ、そちらの方がはるかに健全な愛の達成の在り方のような気がします。今までは決して出会うことができなかった自他それぞれの意識が、一度だけ奇跡的に統合される場所——オコツト情報によれば、それが「シリウス」という場所です。
此岸にプレアデス=我があり、彼岸にオリオン=汝があるとして、果たしてその二つを分け隔てている中間地帯であるシリウスとは一体どのような場所のことをいうのか――にわかには受け入れ難い内容かもしれませんが、それは「モノ」である、というのが目下のところのヌース理論の考え方です。
しかし、このシリウスとしての「モノ」は僕らが普通接している「モノ」とはかなり違った存在です。僕らが日常の中で「モノ」と呼んでいるのは、「見ているわたし」と「見られているモノ」が分離したところに存在しているモノです。普通、こうした「モノ」たちは対象や客体と呼ばれており、それを見ている「わたし」とは独立した存在として、「わたし」の外部にあると考えられています。しかし、「わたし」の外部にモノが存在しているのだとすれば、モノの世界は人間の感覚器官とは何ら無関係に正体不明の存在物として漂っていることになり、そこから、人間の感覚機構が拾って来たものだけが、人間に「モノ」として知覚されているということになります。とすれば、人間の知覚に上がってくる以前のモノそのものの世界については、結局のところ、人間には永久に分かり得ないということになってしまいます。つまり、モノそのものの存在自体は超越的なものであるという結論が出てきてしまうわけです。こうした超越者としてのモノのことを哲学者たちは「モノ自体」と呼んできました。
ヌース理論がシリウスと呼んでいるのは、実はこのモノ自体の世界のことを言っています。プレアデス、シリウス、オリオンという宇宙の三位一体構造とは、言い換えれば、「わたし」-「モノ自体」-「あなた」という三位一体構造のことでもあるというわけです。このことは、言い換えれば、モノ自体の秘密を解かなければ、「わたし」が「あなた」の下にたどり着くことなど到底不可能だということを意味しています。スピリチュアルな世界ではいつも感性重視で愛の思想を説いていますが、もし、真の意味での愛の成就があるとするならば、それはモノの中で、モノとして達成される必要があるのではないか、というのがヌース理論からの提言なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: オリオン, トランスフォーマー型ゲシュタルト, プレアデス, 人間型ゲシュタルト