4月 23 2005
コンスタンティン
キアヌ・リーブス主演の映画「コンスタンティン」を観てきた。予想していたよりもかなりいい出来だった。キアヌの演技も力が抜けててよかったし、SFXの控えめな使い方も好感が持てた。何といっても一番気に言ったのは、登場してくる天使や悪魔の描き方である。C・ウォーケン主演の「ゴッドアーミー」を彷彿とさせるスタイリッシュな天使像、悪魔像はなかなかのものだ。中でも、ティルダ・スウィントンが演じた大天使ガブリエルが実にいい。彼女の快演が普通であればB級幻魔大戦モノで終わりがちな作品の質を1ランク上げていたと言っても過言ではないだろう。彼女に免じて★★★★を上げよう
さて、この映画、スタイルだけではなくストーリー展開にも一捻り、二捻りぐらい入れてる。だから、単なるエクソシストもののように聖霊万歳、悪魔退散という簡単な構図では話が進まない。普通、ガブリエルは処女懐胎をマリアに告げにくる受胎告知の大天使として有名だが、この作品の中では、ガブリエルはルシフェルの息子マモンと密約を結び、人間界にマモンを引き入れようとする黒幕として描かれている。速い話、善VS悪という単純なイデオロギー対立の世界観はこの映画ははなから持っていないということだ。このマモンを人間界に生誕させるために必要とされるものが、映画の冒頭で登場してくるロンギヌスの槍である。ロンギヌスの槍とは、ゴルゴダでイエスが処刑されるときにその脇腹を突いた槍のことだ。この聖槍の存在はアーサー王の聖杯と並んで、ヨーロッパの代表的な秘宝伝説となっている。かのヒットラーも血眼になって、この槍を探し求めたのは有名な話だ。
まぁ、もっとも、ヌース的に見れば、これらの秘宝は単なる象徴、仮儀にすぎない。神秘学的な解釈を普通にたどれば、これら聖槍と聖杯の結合によって対立物の一致が起こり、賢者の石ヘルマフロディートスが生成されるというストーリーになるのだろうが、重要なことは、それらのシンボルが何を意味するかということである。参考までに、聖槍と聖杯をヌース理論的に解釈すると次のようになる。
・ロンギヌスの槍………男性原理………反定質の力………ロゴス
・聖杯………女性原理………反性質の力………コーラ
ヌース的に言えば、聖槍と聖杯の結合は、ロゴスのコーラへの流れ込み、もしくは、コーラによるロゴスの吸引のイメージとなる。これは宇宙的受胎の意味であり、すなわちいつもわたしが騒いでいる「ヌースの発振」のことだ。このヌースの発振はロンギヌスの槍が聖杯に突き刺さったときに起こるが(エヴァンゲリオンでは月に刺さる槍として描かれていた)、このときこの槍を杯に刺す役割をするのがガブリエルだと考えると面白い。当然、この行為には影があり、それは反ヌース的なものをこの地上に出現させる。。。
映画の話に戻ろう。ガブリエルがマリアの胎(このマリアが実は双子だったことも面白かった)に聖槍を突き刺そうとしたとき、コンスタンティンによって召還されたルシフェルがそれを阻止する。ルシフェルとはマモンのオヤジである。古き魔王ルシフェルはそれなりに古い掟を守り、人間界に勢力を延ばそうとしたバカ息子のマモンを地獄に連れ戻していく。結局、ガブリエルの悪企みは失敗し、ガブリエルは翼をもぎ取られ人間に失脚する。。。
さて、この原作者、よほどの愛煙家なのか、それとも嫌煙家なのか。喫煙がいかに体に悪いかということを、随所でメッセージしてくる。ルシファーでさえ召還できる能力者がタバコの吸い過ぎで肺ガンにやられて死ぬという設定は、なかなか風刺の効いたギャグには違いないが、宗教と科学が完全に引き裂かれ、それらの関係を再構成させることに全く興味を喪失してしまったアメリカニズムの今を感じさせた。。
5月 19 2005
エゼキエル・シャフト
今日は数学の話。
この数ヶ月、機械製作に没頭していたため、ヌース理論の思考作業の方がおろそかになっていた。ここ数日は、また、ロゴス(種子)をいかにして宇宙卵に受精させるかというヌースの直裁的なテーマを考えるのに躍起となっている。この場合のロゴスとは幾何学の論理。宇宙卵とは人間の実存の中に蠢く情動力のことだ。それもこれも、ヌース会議室の方にgnuさんという、数学が大変できる人が登場されたからである。正直、わたしは彼の豊富な数学的知識に直接訴える形で論を展開できないでいる。まぁ、そのへんはいずれ専門家がやってくれるだろうと暢気に構えていたが、やはり、ここは自力でやるしかないのだな、ということを痛感した。考えてみれば、種子が十分な発育を遂げていなければ、受胎される胎児もおそらくキメラ生物のような気味の悪いものでしかないだろう。そうした奇形は決して出産までこぎ着けることはできない。そうした経過もあって、ヌースのツインドライブ頭がまたグルグルと回り出したのだ。
ヌース理論は視線方向に四次元が重なっていると説く。その説明にはやはり複素数平面を使うのが一番いい。そのロジックはそれほど難しいものではない。今、目の前に左右に延びる一本の数直線をイメージしてみよう。それは「見える」という意味で「実」だ。次に、お約束通り、原点Oを中心として右方向に+方向を取り、左方向に-方向を取る。さて、ここで左右を入れ替える操作を考えてみよう。そのためには原点を中心としてグルっと180度回転させればよい。つまり、この操作によって+1は−1に変わり、−1は+1に変わる。つまり、この回転操作は代数的には−1を掛けるという演算の意味になるわけだ。
では、このときの90度回転とは一体何なのだろう。90度は180度の半分であるから、それを代数的な意味に置き換えれば、当然、二回の90度回転で−1が導き出されてくるわけだから、i×i=−1というように考えることができる。よって、実軸の原点を中心とする90度回転とは数直線的な意味の連関から「虚軸」である、ということが言える。ならば、複素平面でいつも目にしてるように、ヨコ軸が実軸で、タテ軸が虚軸かというとそうではない。なぜなら、目の前の空間においてヨコとタテは相対的なものにすぎないからだ。これといった差異がない。クビを横に向ければヨコはいつでもタテになる。ヨコもタテも「実」なのだ(※ヌース理論のさらなる先の展開では、このタテ/天地とヨコ/地平は全く違うものとなってくる)。
となれば、残る方向は一つしかない。つまり、奥行き方向である。この方向に虚軸が関わっているということだ。実際、奥行きは「虚」の名が示す通り目に見えないではないか。これはタテとヨコに対する絶対的差異である。
このような考え方をすると、三次元空間は二枚の複素数平面で構成されているのではないか、という考え方ができるようになる。つまり、二枚の複素数平面を直交させ、それらが十字の形に見えるように目の前に配置するのだ。タテ平面に通る奥行きとヨコ平面に通る奥行きは、当然、重畳し合い二本の虚軸としての意味を持っている。この重畳した二本の虚軸とは、自己と他者との眼差しの交差の場でもあるだろう。およそ宇宙に存在するすべてのものの生成はここで起こると考えるのがヌース理論である。すなわち、ここで交差している二本の虚軸がエゼキエルの車輪を回すシャフトとなるのだ。二組の「わたし」でもある(i、−i)のキアスムによって生まれる二組の「±」。鏡像交換の原理によって一組の±の軸は三次元という想像界へ、そして、もう一つの±の軸は4次元という現実界へと接続する。その意味で、ここは物質と意識が分離する分岐点でもある。もう一度言おう。奥行きには4次元が重なっている。奥行きを観じている者、それが四次元の君だ。。ブルトンの言葉が久々に聞こえてくる。。。そろそろ、エンジンがかかってきたようだ。前進あるのみ!!
そこから見ると、
生と死、
現実と空想、
過去と未来、
伝達の可能と不可能、
高さと深さなどは、
もはや対立とは思われない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ロゴス