7月 24 2006
「13」と「14」
次回のヌース本では「cave compass」という新しいモデルが登場してくる。サイトの方にその大まかな解説は掲載しているが、これは7段階の双対性(交差配列)からなる空間構造体であり、ヌース理論はこの構造体によって無意識構造を説明していくことになる。
名前こそ変わったものの、この「cave compass」とは、「シリ革」で紹介したプレアデスプレートのことだ。プレアデスプレートは真言密教に言う胎蔵界マンダラに当たるものであり、天体としては月が支配する精神領域で、総計28の空間の区分(ψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14)から成る。
物質宇宙(人間の内面の意識総体=時空)は地球精神の落下によって出現しており、月はこの方向に抗うように意識の落下を巻き戻すことによって人間に実在への変換性を与えている。その意味で、月と地球は太陽系の中においては極めて特異な次元である。これら二つの天体は、太陽系全体における意識循環の陰陽をホロニックに取りまとめ、太陽系の精神活動を人間の個体として集約させるのである。
太陽系の中で最も精神進化を持っているペア-プラネットは最遠の惑星、冥王星と、未だ発見が確定されていない第10惑星Xだ。天文学的には全く察知されることはないが、地球と月はそれら両者の力の影響をダイレクトに受けている。冥王星は地球を誘導し、第10惑星は月を誘導する。「潜在化」とは、その意味で、太陽系精神全体の意識活動が、地球-月間にホロンとして投射されている次元である。そして、面白いのは、この「潜在化」次元が新しく生み出されてくる太陽系精神のための元止揚、つまり、原初の対化として働いているのである。ヌースが人間存在を太陽系の精神活動の終わりと始まりの結節点に位置づけるのも、そうしたイメージからである。
この一連のストーリーには、イデアの完成が近づけば近づくほど、地球は存在の虚無の中に落下していき、人間が物神に帰依していくという皮肉な仕組みがある。物質世界が頑な同一性を保持している真の原因は、天上で作用している冥土の王、冥王星に原因があるわけだ。冥王は精神を一つにまとめる偉大な王だが、その一つにまとめるという精神が、人間においては物神となって出現するのである。創造神とデミウルゴス(造物主)は同じものの二つの側面である。冥土の王もまた双子であり、この双子が合体を果たすとき、第13番目の精神が生まれる。これが「最終構成」と呼ばれるものである。この精神の出現が存在を再び折り返すための契機の力となる。存在を折り返すこと。惑星の諸力を再び、逆方向に回転させること、これがrevolution(革命=再び-回転させる)の本質だ。13が生まれるところ、そこには必ず14が反映されてくる。
この第14番目の力はイシス-オシリス神話で再生のための秘蹟として語り継がれてきた。オシリスはセトによって殺され、その遺体は14にバラバラにされる。遺されたオシリスの妻イシスはその遺体を丹念に拾い集めはするものの、なかなか14番目が見つからない。14番目の肉片とはオシリスの生殖器であった。イシスは時の神トートに頼んで、この「14」番目の肉片を黄金で鋳造する。「14」番目の肉片とは、月の中に埋もれた無意識構造全体のことである。物質存在の反響としての眠れる精神。この潜在的精神を必死に掘り起こそうとしてきたのがフロイト、ニーチェ、マルクス、フッサール等に始まる現代思想の潮流と言っていい。その意味では思想は常に神話の手のひらの上で踊らされている。
1月 11 2007
差異と反復………2
たぶん「差異」という言葉を難解に感じている人も多いかもしれない。単なる言葉の意味としてならば、それは「違い」と言い換えても何の問題もない。ただドゥルーズが執拗に追いかけていた「差異」とは、存在論的差異というやつである。もともとこの存在論的差異を云々しだしたのはハイデガーだった。存在論的差異とは、簡単に言えば、「あること=存在」と「あるもの=存在者」の違い、のことだ。「あるもの」は「あること」によってその存在を可能にさせている。「あること」がなければ「あるもの」もあるものであることを止めざる得ない。問題はこれら「あること」と「あるもの」、この両者の差異とは何か、ということである。しかし、ちょっと考えると、さらなる差異もある。「あること」と「あるもの」の差異を見ているのは人間じゃないかということだ。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在の有り様であって、ハイデガーはこうした存在を存在者とは区別し現存在と呼んだ。存在、存在者、現存在。。存在にもいろいろある。ドゥルーズは存在に潜むこれら諸々の差異の本性の中に思考を侵入させていこうとしたのだ。。。。話が難しい。
すでに思考停止した人もいるかもしれない。しかし、ちょっとした言葉の置き換えで、この哲学的命題は非常に分かりやすくなる。それは存在を「神」に、存在者を「被造物」に置き換えさえすればいい(まぁ、こういう乱暴な置き換えが許されればのことだが)。すると、存在論的差異とは、神と被造物との差異のことを言っているということになる。ただ神という概念は全体性への欲望を駆り立てるので、現代哲学は好まない。事実、ハイデガーの時代はすでにニーチェが登場して「神の死」の時代に突入していた。おまけに第一次世界大戦という歴史上未憎悪の惨劇が起こり、ヨーロッパ世界の存在そのものが危機に瀕していた。ハイデガーはカトリック教会の堂守の子で、幼少の頃は敬虔なクリスチャンだったのだが、彼はその神学的な欲望を哲学で果たすことによって、ヨーロッパ世界(ドイツ民族?)の救済をもくろんだのだろう。
さて、この差異だが、差異には必ず反復がセットがついてくる。というのも差異とは常に何ものかと何ものかの差異でしかあり得ないからだ。例えば、右と左の差異について考えるといい。こう言った瞬間にも、皆の首は右、左、右、左、とテニスの観客のように反復しているのではないだろうか。つまり、差異が反復を生むと言えるし、また反復の間に差異が眠っているとも言えるのだ。そして、反復という活動は人間の言語が二項対立的な図式のもとに成立している限り、必ずすべての認識につきまとってくるものとなっている。というところで存在論的差異の話に戻ろう。
ドゥルーズは世界が現れていること、これもまた反復であるという。一体、何が反復しているというのだろうか。それは端的に言えば、存在論的差異における反復である。存在論的反復とは、言葉の上で言えば、存在、存在者、存在、存在者………という反復のことになるが、これでは何のことか分からないので、再びさっきの言い方を用いてみる。すると存在論的反復とは、神と創造物の間の反復と言い換えることができる。つまり、単に存在する、とは言うものの、目の前に世界が現れているということは、創造における最初のものと最後のものとが一緒に重合しあった形で、その気の遠くなるような創造の距離を、おいっちに、おいっちに、と反復しているということである。こうした反復は僕ら人間には即自的反復(それそのものにおける反復)のようにしか見えないが、その背後にはニーチェのいう永遠回帰が働いているということなのである。——つづく
By kohsen • 差異と反復 • 5 • Tags: ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, 差異と反復