3月 22 2013
半田広宣 講演会 in 京都——その2
~別の自然史~
kohsenさんが1989年以降の約5年間にわたって続けられたオコツトとの交信は、人間たちが伝えている宇宙観とは全く異なる別の自然史を伝えて来ていました。
それは、宇宙は調整と覚醒を交互に繰り返すというもので、簡単に言えば、宇宙は寝たり起きたりしているというようなものでした。それこそ学校で習った歴史とはちがうわけです。ビッグバンから始まって、元素が生まれ、天体が誕生し、その一つである太陽のもとで、のちに地球と呼ばれる惑星で生命がうまれ、進化し、精神を持つ人類が生まれたといった、私たちにとってごく当たり前を思ってきた歴史と、全然異なるものだったと言います。
ムーとアトランティスの時代というものもあって、それは今のような「人間」の時代ではなかったそうです。つまり、人間から次の人間へと移行しようとしている者たちという意味で、彼らは「変換人」と呼ばれました。
例えば、シュメール文明を始めとする世界の多くの文明がそれまでの自然な流れがなく、いきなり完成された形で忽然と「国家」として出現するというのは、なんとも不思議だというわけです。つまり、どのように国家として姿を現したという、事の経緯が見られないのです。
「2012年」に人類が滅ぶのではないかと騒ぎ立てるようになる以前から、既に少なくとも最初の著作を世に送り出した1997年から15年にわたって、ヌーソロジーは「2013年」からの人間の「変換人」への移行のことを示唆してきたわけです。
~オリオン・シリウス・プレアデス~
さて、次に、ヌーソロジーが「オリオン」「シリウス」「プレアデス」という愛称で呼ぶ概念についてです。オコツトは、こうした呼称をよく使ったようですが、それについて、それらは「あなたがたにとって星として見えているものであるだけ」だと言っています。オコツトは、天体に関して、今の科学が持っているような見方は全くしていないようでした。
現代科学の見方としては、夜空に浮かぶ星々の姿を太陽と同じ恒星の仲間として捉えているわけですが、そうではないと言っているわけです。こうして地球から見えるある天体にたどり着こうと、たとえロケットを飛ばしてそこを目指したとしても、その旅の途中で、その物体としての天体を支えているものが消滅すると言うのです。つまり、それは、人間が考えているものとは全然次元が違うものだと言うわけです。それは、言い換えれば、人間の霊的なものを動かしているものだと言います。
オコツトは、こんなことを言っています。
「シリウスは重次元に反映された力の反転作用のことです。」(OCOT情報)
ヌーソロジーには、いつもこのオコツトの言説である、シリウス・ファイルと呼ばれる、kohsenさんとオコツトとの交信記録からの情報が参照されます。それは、人間が日頃慣れ親しんだ概念とは、全く異なる概念から構成されているようです。
それによれば、前述したオリオン・シリウス・プレアデスという3つの概念は、キリスト教に見られる「三位一体」に通じるような相互関係を持つようです。そして、オリオンはプレアデスに重なるようにして一緒になってこの世界を作っており、そのことを「重次元」と呼ぶようです。それは、ある種の契約とも言え、まさしくそれは「父と子と聖霊」に見られる父と子の契約なのだと言うわけです。そして、このオリオンとプレアデスの間で動いている状態こそが、前述の「調整期」であり、それに対して、まるで背後からすーっと入ってきて移行していく状態が「覚醒期」だと言います。
そのオリオンとプレアデスの関係について、旧約聖書のヨブ記38章31節から33節までの言説を参照しています。
「汝はプレアデスの鎖を結ぶことができるのか。
汝はオリオンの綱を解くことができるのか。
汝はは黄道十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。
汝は北斗とその子星を導くことができるか。
汝は天の法則を知っているのか。
汝はその掟を地に施すことができるか。」
(ヨブ記38章31-33節)
そして、ヌースのヌースたる面白味は、この意味合いを、cave compassというモデルを用いて、幾何学的な精神の運動としてそれらを捉えようとする試みです。(つづく)
2月 18 2014
奥行きの中に垣間みた永遠世界のクロッキー
このところ奥行きへのdevotionが続いている。たまには幅の世界へと戻らないとヤバイ(笑)。
奥行きに身を捧げることは永遠に身を浸すということになるのだろうから、死を永遠の生へと転ずるための一つの身振りということでもあるのだろう。この存在に沈み込んでいく感覚を単なるムードではなく、どこまでリアルなものへと掘り下げられるかは、その風景の描写にかかっている。まだまだ潜行が足りない。
無限大が無限小へと舞い降りるという事件を目の当たりにして個人的に一つ分かったのは、今まで無限大と無限小という観念のもとに二つの未知としていた対象は二重化した自分自身の在り方にすぎなかった、ということだ。
今まで巨大なシャボン玉のように世界の包括者として君臨していた時空間(=自我)が単純な実体としての自分自身に気づき、キラキラと七色の光を放ちながら物質のもっとも深いところへと旋回しながら舞い降りて行く。ライプニッツ的なあまりにライプニッツ的な聖霊降臨という出来事。
ライプニッツに拠れば「モナドには窓はない」。とすればこの事件は極めてパーソナルな、自らの内在での出来事ということになる。もちろん、それはそれでいい。だけど、果たして、この内在としての生の中で「永遠の汝」と出会い、そして一体化するなんてこが可能なのだろうか。出会えるとすればどうやって?
ケイブコンパスを素粒子の生成地図にあてがって、イメージを広げる限り、直接の出会いはどうも難しい。たとえ出会ったとしても、必ず二つのものへの分化が起こるということを地図は物語っている。対称性は常に拡張されていくものだから。。
しかし、これは必ずしも分裂を意味するものではない。生産的差異化のようなものじゃなかろうか。 内在原理には深く結合すればするほど間により大きな差異を累積させていくという性格があるようなのだ。2が4に。4が8に。8が16に。延々と累乗化されていく力の地層。。
この累乗化がライプニッツがいう共可能性というものの本質なのかもしれない。つまり、天上世界とは他者と「一つになる」といったようなスタティックな状態を指すのでは決してないということ。
むしろ、一つになれる「可能性」がはっきりと示されるからこそ、絶えることのない差異化が実行されていくということ。そこでは「一つなのだから別々であっていい」という背理が神の存在の根拠のもとに働いているのだ。
こんな世界だから、奥行きに住まう天使たちには、妬み、悲しみ、野心、不安といった感情はない。そこでは「君はここにいるよ」「君もここにいるよ」というメッセージだけが一つの美しい音楽としてやりとりされている。
幅の世界は相変わらずの喧噪だが、奥行きの世界では真夜中の静寂の中に降り積もっていく雪片のように、無数のモナドたちが物質のもっとも奥深いところに次々に着床していく様子が感じ取れる。内なるものへの欲望の扉がまさに開いたかのように。これからも徹底してこの内部化への欲望に準じようと思っている。
崇拝とか憧憬の対象となる神なんてものはもういらない。モナド化した「わたし」とはすでに神の身体の一滴である。だから、今度は神の身体の内部から人間世界に向かって畏敬の念を払い続けること。永遠の中に生きるとはそういうことなのだろうと感じている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, モナド, ライプニッツ, 奥行き