3月 11 2006
核質化した不連続質
本がちょっと煮詰まっているので、その煮詰まりをこっちに捨てる。
既刊の3冊のヌース本にはまだ顔を出していないが、ヌース理論には核質・無核質・反核質という三位一体の重要概念がある。これらは普通の言葉で表現すれば、モノの現象化の力、モノの知覚化としての力、モノの存在化としての力といったような意味を持っている。(現象化させるのが存在化、という意味で使用している)
例えば、今、目の前にライターがあるとすれば、ライターという物体が外界にあるという認識が核質、それを見たり触ったり嗅いだりして、ライターの実在が実感として生まれている状態が無核質、そして、ライター自体がそのもの自体として真に存在している力が反核質と考えていい。より分かりやすく言えば、虚像としてのライター、そのライターを見る者、実像としてのライターという言い方にでもなるだろうか。
例えば、わたしが持っているライターがZippoのビンテージものだとする。それをトンとテーブルの上に立てて、「どや、ええやろう。」と君に自慢したとしよう。君がわたしと同じような趣味を持った人間であれば、そのZippoが欲しいと思うはずだ。果たして、その所有の欲望はどこからくるのだろうか。
核質とは一つの個物をまさしく唯一性として三次元世界に固定する力である。しかし、なぜか見ている主観は君と僕とに分かれている。つまり、核質は「1」であるのに対し、無核質は「2」に分かれているのだ(正確には無数)。そして、そうした「2」が再び個物の方向とは逆方向で「1」に統一されている場所がある。それが「反核質」というところだと考えておけばいい。まぁ、哲学的に言えば、客観性と主観性と間主観性といったところか。。
つまり、君と僕とは下なる「1」と上なる「1」の間に挟まれた異なる「2」であるということなのだ。下なる「1」をモノと呼ぶならば、上なる「1」がヌースがいうヒトである。ただし、困ったことに、こうした上下という方向が見えない人間にとっては、これらは同じモノに見えてしまう。本来、1なるものを意味する「愛」が、似て非なる二つの種族になって出現してくる背景には、こうした裏事情があるわけだ。
さて、となれば、このライターが欲しい。いくら金を積んでもいいから欲しい。いや、正直いうと盗んででも欲しい。。といった君の欲望を駆り立てている張本人は、上なる真実のライターそれ自身である、ということが言えまいか。というのも、上なるライターにはそもそも「2」がないからである。つまり、そこでは見るものの領域(主観)である無核質はすべて一つになって統一化されているのだ。だから、この「一」への吸引の力は、事物として二つの主観を統一したいという等化力を、二つに分裂している主観に浴びせかけてくると考えられるのだ。
つまり、君が僕のライターを欲望しているのではなく、僕のライターが君を欲望している。その結果、君はこのライターに魅せられている、ということになる。
そうこうして、この等化力は磁力のように無核質にも一つになることを要求してくるはずなのだが、ところが、そんなにうまく事は運ばない。それはなぜか——。理由は単純だ。無核質には核質側からも統合化の引力が働いており、このライターはモノとして一つなんだからそっちに行ってはいけない、という強固な強制力を作用させているからだ。「神はダブルバインドである。」というドゥルーズ=ガタリの言葉の真意もここにある。
このオイディプス的な矯正力は強力なもので、モノ=物質という同一性の場の中で、「2」に分離している無核質をほとんど見えなくさせるぐらいの勢力を持って、現在も暴れ回っている。無核質が、核質に幻惑されると、身体は物質的肉体としてしか見なされることはない。この同一化の中では、あいつとオレとは別の生き物(主観=無核質)であるにも関わらず、オレかあいつか白黒はっきりつけたい欲求が生まれてくる。あいつが白ならアーリマン的な世界に引きずり込まれ、、オレが白ならルシフェル的な世界が待っている。物質ファシズムと身体ファシズム。いずれにしろ、ここには悪魔的ものしか生まれることはない。科学主義と、宗教主義や身体主義はそれぞれの代表と言っていい。いずれにしろ同一性が生んだ魔物なのだ。
こうして、無核質は上なるライターの統合力を、上を知らない者として経験するがゆえに、他者のモノを我が者にしたいという欲望に駆り立てられるのだ。君自身が核質に引っぱりこまれれば、君は同一化帝国の皇帝に君臨し、それが帝国の平和だと信じて、徹底して世界を我が者にしようと頑張るだろう。政治の世界を見ればそれはよく分かる。
君が力のせめぎ合いのところにかろうじて位置を保てていれば、君は正常な人間である。正常な人間においては、彼のものは彼のもの、わたしのものはわたしのものという、当たり前の割り切りを持って所有の分有を行うことになる。しかし、それでも、君の所有欲が消失するわけではない。君はこの欲望のバランスを保つために相当の疲弊を強いられていることをよく知っているはずだ。君のように意思を持った正常な人間であっても、このバランスを取るのがやっとのところなのだ。
カバラにいう「神の縮退(ツイムツーム)」や「器の破壊(シェビラート・ハ=ケリーム)」とは、このように、無核質の場所が人間の世界認識において行方不明になっている状態のことを意味すると考えていい。核質-反核質結合によって、無核質がズタズタに切り裂かれているということ。器をいかにして修復するか、つまり、無核質をいかなる手法によって縫合し直すか、それがヌース理論が手始めに着手している作業である。
父と子の間に交わされたユダヤ的契約を解除し、
聖霊の群れを再び世界に出現させること。
ヘルメスが持った竪琴の糸を天界へと再び張り巡らすこと。
宇宙的音楽をケイブに再び、鳴り響かせること。
彼岸をプタハの架け橋によって対岸に出現させること。
いずれにしろ、そのためには上の世界にあるモノをこの地上に引き下ろしてこなくてはならない。それが超越を現実へと導く唯一の手段なのだ。君にこれら二つのモノを見る視力はあるか?
6月 3 2006
独自の生殖領域
不連続差異論とのセッションが続いています。興味がある方は是非、ご覧下さい。
不連続的差異論の冒険——http://ameblo.jp/renshi/entry-10013120351.html
以下は、今日書いたレスです。
>同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。
renshi氏のおっしゃる通りだと思います。「独自の生殖領域」というのは、象徴界と想像界の間で性倒錯が起こる場所という意味で書きました。神話的に言えばオゴ(ドゴン神話)や蛭子(古事記)が生まれてくる領域に当たります。オイディプスの父殺しの現場ですね。子が愚かにも母と交わってしまう。父と子のユダヤ的契約が行き過ぎて、父殺しが起こり、何を勘違いしたのか、子が王の座へと着いてしまうわけです。ここで、無意識の欲望回路の逆転が起こります。宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくることになります。その変わりに、享楽(死への欲望)への回路は完全にシャットアウトされ、死者隠しの近代、宗教嫌いの近代、オカルティズム侮蔑の近代が出現してくる。
その意味で、この倒錯した生殖機械は反転した闇の現実界である、とも言えるでしょう。こうした仄暗い生殖が起こる領域のことをカバラはクリフォト(殻)と呼んでいます。これは、近代自我が居座っているニセの容器とも言えます。おっしゃる通り、この容器の本質はディーン(火星)の闇の中にあります。シュタイナーが「ソラト」と呼んだものではないかと思います。
ただ、クリフォトが唾棄すべき無用な存在かというと、そうではありません。ここでは、哀れながらも繊細で美しい有機体の生命活動が営まれているはずです。ドゥルーズが「バロック(襞)」として表現したものも、こうしたクリフォトにおける生殖の営みの連鎖性・連続性についての事柄だと思います。神ではなく、コギトとして光と影を操り、それら両者のコントラストを交互に織り混ぜながら、個体に託されたエロスの活動を行って行く。それがバロック的運動というものでしょう。
さて、オイディプスによるこの父殺しの構図をヌース理論的にトポロジーとして見ると、三次元球面(人間における主体統合)の時空的一点への同一化として解釈することができます。ペンローズのいうツイスターファイブレーションです(実際、ツイスターファイブレーションは資本主義機械が生まれてくるとしたC^4上で起こります)。これは内在であったものが超越側へと接続するときの位置の幾何学的表現と言っていいと思います。カント風に言うならば、主観形式と客観形式の結節点です。ここで、点概念に強大な霊力が宿ることになります。
この点概念の突然変異により、数学的に構築された理念性の世界が延長空間に張り巡らされて行くことになります。ドゥーズのいう公理系。つまり、デカルトやガリレオ的思考による近代科学思考の勃興ですね。科学は変質した点を「物体の質点」として語り、それがなぞる幾何学的法則性によって僕らの世界が営まれているかのような言説を生み出してきます。しかし、ご存知のように、そこではフッサールのいうところの「数学的に構築された理念性の世界と、現実に知覚的に経験された世界(日常的世界)とのすり替え」が起こっています。要は、科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していないわけですね。モノが存在しないということは、光との連結を失っているということです。光とは、存在の出力と入力の橋渡し役そのものですから、コギトの科学王国はこうした存在の生成回路とは不連続の領土を形成しているわけです(ヌースでは不連続質と呼びます)。バロックの字義通り、生活空間と、この不連続の領土の間に「歪んだ真珠」、つまり、光と闇との間の拮抗で歪曲させられた人間の魂、のリトルネロが流れていくことになります。
こうしたバロック的な反復運動の中でコギトの自己同一性をかたくなに保証していくものが、紙幣の行使、つまり、経済活動(資本主義機械)なのでしょう。真の現実界ではモノを通して主体の交換が行われていくのですが、闇の現実界の空間では主体を通してモノの交換が行われるようになってしまう。宇宙エネルギーの交換関係が丸ごと反転してしまっているわけです。聖霊の力がウォルプタス(人間的な悦楽・喜び)へと変質し、貨幣(紙幣)となって巡回し、悪夢のように周り続ける。誰でも紙幣をつかんだときにこみ上げてくる、あの得体の知れない薄気味悪い笑みを思い浮かべて見れば分かるでしょう。そこで笑わせているのがウォルプタスそのものです(わたしも例外ではありません)。
紙幣は神(国家)の名において脱コード化の能力を与えられます。売買という行為を通して相対的差異を持ったものすべてがこの貨幣を媒介として同一性の空間に叩き込まれて行く。芸術、セックス、愛はいうまでもなく、哲学や宗教までもが。。何と言うコギトのどん欲さ。貨幣とは、こうした反転した主体による反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群とも言えますね。銀行や証券会社はこれらの聖霊力を狩り集め、都市の中心部に物神崇拝の教会・寺院として君臨している。世界は中世とさほど変わっていない。。。質こそ変われ、まだまだ暗黒時代なのでしょうね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 7 • Tags: カバラ, カント, ドゥルーズ, ユダヤ, 資本主義