12月 10 2005
汝、我、物
さて、いつまでも昔の思い出に浸ってるわけにはいかない。今年一杯に新しい本の企画書をあげなくてはならないからだ。曲作りのときもそうだったが、わたしは本を書くときはまず最初に全体のグランドデザインをじっくりと練ることにしている。もちろん、書き始めてから,途中、その構成プランが変更を余儀なくされることもあるのだが、いずれにせよ、構成という問題はわたしの表現活動にとっては生命線のようなものである。
——新しい本では何をやるべきか。焦点はすでに一つに絞られている。現時点でのヌース理論の体系をできるだけ簡潔に読者に伝えること。これである。ヌース理論の根本は霊的構造を高次元の空間構造として説明することにあるので、当然のことながら高次元空間なるものを2次元という紙媒体を通じて表現しなければならないわけだから、かなり大変である。サイト上でいろいろと試行してきてみたが、やはりまだまだ強度が足りない。強度とは感覚に訴えるものであるから、自らの感覚が体験していなければその伝達は絶対に不可能だ。
ヌース理論は、「理論」と名のつく範囲では、確かに宇宙構造を観照し対象として俯瞰するものだが、頭で「あっ、なるほど、ペンターブ・システムとして拡張していく空間に秘められた対称性の構造が、〈見る〉というモナドとしての基底空間に折り畳まれていることによって、この物質世界が現象化しているわけね。」と頭だけで納得したところで、その真の醍醐味を味わうことはできない。何より重要なことは、理論が展開している無意識構造の内部そのもの中に自らの身体を投げ入れることができるかどうかがカギになる。無意識構造の中に広がる風景を読者に文字度通り一種の身体感覚として「腑に落ち」させなければいけないわけだ。だから、数学や物理の知識は必ずしも必要ではない。宇宙創造の行為においては、ロゴス(論理形式)はあくまでも予習の役割しか持たないのであって、本質は、そうした論理のルーツと目されるイデアを自らの身体として再現させることにあるからだ。このイデア形成の母胎となるものが「汝と我」という、いわゆる「対化」の関係である。
哲学でこの「汝と我」の実存的関係に深く言及していくものは極めて少ない。わたしが知る限りレヴィナスとブーバーぐらいのものである。ヌース理論もまた彼らの哲学同様、「汝と我」がいなければ何も始まらない。知覚もない。概念もない、一切の物理現象も存在しない。もちろん数も幾何学も存在しない。「我と汝」とは、そのような「根源的2なるもの=線なるもの=磁場なるもの」として解釈されなければならないのだ。それは、いわば神にとっての「二つ」と言っていい。
天上と地上とそれら両者を媒介する中間領域。ヌースではこの三者関係をオリオン、プレアデス、シリウスと呼んでいるが、何のことはない、これらは、汝、我、物のことに他ならない。われわれが神的なものへと変身を遂げるためには、まずは「我」を獲得し、そこから「物」自体へと至り、そこを突抜け彼岸たる「汝」の世界へと入ることが必要である。秘教的なもののすべては、この3段階のプロセスの中に集約されている。そのルートを一つの身体感覚として明確に読者に追体験させることができれば、次回の執筆は成功と言えるだろう。しつこいかもしれないが、あなたとわたしともの。。この三つの観念としての支点からすべての創造が始まるのである。
4月 28 2006
新著のためのメモ
新著執筆のメモ代わりに続けて記しておく。
世界が現象として目前に開示されるだけでは主客認識も自他認識もおそらく発生しない。というのも、主客認識や自他認識の発生には前後方向に延長の概念が派生する必要があるからだ。奥行きに距離を見て、その距離が主-客や自-他を分断関係として用意する。
前後方向における延長が左右方向からの認識であることは直感的に感じ取ることはできる。しかし、僕らはなぜ左右方向から前後方向の延長性をイメージすることができるのだろうか。それは、おそらく、意識が空間自体として活動しているからだ。
モノと自己、さらには、モノを挟んで向かい合う自他という位置関係を想像するとき、意識はすでにモノの前後軸方向から左右軸方向側へとその位置を移動させている。つまり、前後方向は左右方向から観察されない限り認識には上り得ないということだ。実際の自分の視点ではないところからの対象に対する観察力。こうした力をサルトルは「想像力」と呼んでいたが、知性の活動においてこの想像力は不可欠なものである。
ヌースでは意識の位置がこうした左右方向に出ることを「表相の等化」と呼ぶ。これは自他が経験している対象の見え(表相)であるψ1-ψ*1の関係が等化されることを意味する。意識は当然のことながら、ここからψ3-ψ*3、ψ5-ψ*5という外面同士の等化を進めていくことになるのだが、1-1*、3-3*、5-5*、7-7*という奇数系同士の観察子が等化されていく次元が思形の全体性=ψ9が作用している場所となる。これは自他の外面同士の統合地帯であるから、客観性の起源となっている精神作用として解釈される。つまり、ヌース的に見ると、客観性の起源=もの自体とは、無意識の主体(人間の外面)が統合された空間なのである。
ヌースでいう「等化」の作用とは、意識の次元上昇のことであり、幾何学的には直交性=観察のノエシスが増設されていくことを意味する。「表相の等化」によって、相対する人間の外面領域として対峙関係にあった自他の二つのエーテル体は統合され、別の作用へと質的変化を被る。この変化は幾何学的には極めてドラスティックな変化である。エーテル体は前後方向の中に集約された4次元空間上のノエシスとして活動しているが、この質的変化はノエシスを5次元方向へと直交変換させる。そして、おそらく、この5次元が実は僕らが左右と呼んでいる方向の本質となっている。
このブログでも何度も執拗に書いてきたように、前後方向の空間においては、自他に知覚される空間は鏡映空間の役割を持ち、互いに反転関係にある。この鏡映性は射影空間の性質を持っているので、互いの鏡映反転の関係は、内部=外部、外部=内部という双対のメビウス的捻れによって連続的に結びつけられている。人間における無数の個体性を決定する個々のパースペクティブは、この四次元回転が作り出す捻れに沿って配位されている可能性が高い。
しかし、ここに左右方向からの観察意識が入射すると、その連続的な結びつきを切断する作用が生じてくる。別に難しい話ではない。前後空間の風景は、視野とその中に映し出された君のまなざしから成っているが、左右方向から見た風景は、君と僕との二つの横顔が対等に並んでいるような情景へと変わってしまうということだ。これは極めて大きな意識のジャンプだ。このジャンプがさきほど言ったエーテル体の変質の意味するところなわけだが、このジャンプによって、前後空間に内包されていた自他間の視野空間と瞳孔の相互反転のキアスムの関係は忘却され、二つの視野空間と二つの瞳孔という形での極性分離が起こる。つまり、(−,+,−*,+*)として構成されていたものが、(−,−*、+,+*)へと偏極してしまうのだ。これは、物理学的に言えば、三つの力が作用する微視的な内部空間の世界から、重力+時空という巨視的な世界へと移行することとホモロジカルな関係にあるように思われる。
ヌース的には、この素粒子空間→重力+時空への存在の偏極がシリウスからオリオンとプレアデスへの二極化の本質となっている。オリオン-プレアデス関係においては、意識の相殺の流れを作り出していた双対的な4値関係が見えなくなり、世界は一気に2値化する。というのも、(−,−*、+,+*)は(−,−*)を一つの−に統合し、(+,+*)もまたその反映として一つの+へと同一化させられてしまうからだ。それらの関係を天上と地上と呼んでもいいし、父と子と呼んでもいいし、ちょっと気取って象徴界と想像界と呼んでもいい。ユダヤの神と契約の民の関係がここに生まれ。世界があたかも「光あれ!」という神の号令のもとに、人間に与えられたかのように見えるのだ。
ユダヤの神は過去の神であり、新しい神の到来を待機する真のユダヤ者にとっては偽神である。その意味では、光あれ!!というよりも、重さあれ!!によって世界は生じたのである。現在、ユダヤ神秘主義では、(−,−*)を創造界(ベリアー)と呼び、(+,+*)は活動界(アッシャー)と呼んでいる。(+.−,+*,−*)が意味するものは、もちろん、失われた楽園(形成界=イェッツェラー)である。
僕ら人間(自他)は統合の+という場に生み落とされた新たな−と−*である。楽園の扉を開くためには、統合の+、つまり、この重力に支配された時空を二つに分割する必要があるのだ。そのためには、この−と−*という双子の光に対し自覚的にならなければならない。この覚知がヌースが宇宙卵の分割と呼ぶものである。見るものが無数にいるならば、見られる世界も無数にある。まずは60億個の地球を作り出そう。そうしなければ、本当の地球は見えてこない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: エーテル, オリオン, サルトル, プレアデス, メビウス, ユダヤ, 内面と外面, 素粒子, 表相