8月 17 2015
意識物理学研究所に招かれての講演
8月22日は福山で、意識物理学研究所の佐藤さんに招かれて、現代物理学とヌーソロジーの関係について話をする予定です。
佐藤さんは京大の大学院から、アメリカのブルックヘヴン研究所(日本の高エネ研のようなところ)に移り、約6年間ほど素粒子物理の研究をされていた、言ってみれば、その道のエリート研究者だった方です。以前、一緒に本を書かせていただいた砂子さんも京大物理の出身ですから、ヌーソロジーはやはり京大閥と相性がいいのかもしれません(笑)。
量子力学と意識のただならぬ関係——この問題は量子力学の草創期に、アインシュタインやボーア、シュレディンガー、ハイゼンベルク、ディラックといった天才たちが直面した深刻な問題でした。量子力学の世界ではあの有名な観測問題というものがあって、観測者と観測対象である量子を明確に分離させて考えることができなくなるとされています。つまり、量子は観測によってしか、明確にその姿を表すことはなく、観測されていないときは波動関数という形をとった確率的存在でしかなくなってしまうということです。
当時の物理学界の巨星、アインシュタインはこのような曖昧な量子的現実にどうしても納得がいきませんでした。人間の存在とは関係なく、客観的世界が厳然と存在して然るべきだと考えていたのです。しかし、ボーアの方は量子的現実がそのような挙動を見せるのであれば、人間はその現実を受け入れるしかない、と考えていました。この二人の対立は次のようなやりとりにはっきりと表れています。
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アインシュタインさん、現実というものは観測されて初めて意味を持つものです。観測されていない時の現実を問うことは、もはや意味はないでしょう。
ボーア君、観測する、観測しないの如何に関わらず、現実を確定的に説明できなければ、完全な理論とは言えないのではないか。私は確率だけの予測、それを物理学とは呼びたくはないのだがね。自然はもっと単純な美しさを持ってしかるべきだよ。
アインシュタインさん、その理論が正しくないなら、単純な美しさなど何の意味も持たないのではないでしょうか。我々は古典物理学に慣れ過ぎていたんですよ。ミクロの世界は我々の常識を超えたつながりを持っているのです。
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このやりとりからも分かるように、アインシュタインは客観的宇宙というものが人間とは無関係に存在し、そこに純然たる物理法則が存在していると信じていたわけですね。しかし、量子力学の出現はそのような人間の理性の思惑を揶揄するかのように新たな難問を投げかけたのです。
当時の物理学者たちは、量子力学が呈してきたこのような哲学的命題に対して、夜を徹して何度も議論をしたと言われています。しかし、やがて戦争が始まり、この問題はそのまま等閑にされて現代に至っています。
量子レベルで人間の意識は物質世界と繋がっています。しかし、物理学者たちのほとんどがもはや誰もその繋がりについて考えなくなってしまっているわけですね。そして、物理学者の思考は以前として古典物理学のスタイルのまま、宇宙を客観の産物として見なし続けている。。
22日は、こうした話をスタートラインとして、ヌーソロジーと量子世界の関係について具体的な話をしてみようと思っています。集まった人たちの顔ぶれを見て、もし許されそうだったら、カタカムナの話なんかも少しオカズに挟むかもしれません(笑)。お時間がある方は是非、お出で下さい。佐藤さんとの対談も用意されているようです。僕も楽しみです。
8月 21 2015
物質の究極には精神が存在しているということ
明日の福山での意識物理学研究所主催の講演会。2時間の持ち時間なのでテーマを絞らないといけない。佐藤さんが提唱されている「意識物理学」というのは、「物質の究極は実は人間の精神に他ならない」ということを具体的に論証していく学ということになるのだと思う。その意味でも、この「物質と精神の繋がり方」という部分にスポットを当てた話がいいだろう。
唯物論をベースとしている科学的世界観は、物質からいかにして精神が生まれてきたのかを問い続けるしかないわけだけど、物質の複雑な組織化の結果として精神なるものが発生してきたとする考え方では、答えは永遠に出ないだろう。そういった問い自体が回答不能な、誤った問い立てであることに科学は気づかないといけない。
物質と精神には絶対的な差異がある。端的に言えば、それは見られるものと見るものの差異と言っていい。哲学者のベルクソンはもう100年以上も前に、これらをそれぞれ延長と持続の違いとして明確に二分する思考の必要性を訴えた。延長と持続の差異とは、存在における広がりと深さの差異と言ってもいいだろう。
科学的理性は広がりの方ばかりに注意を向け、深さ、つまり持続の方に自意識的でないために、宇宙について明晰に語っているようで、実は極めて深刻な混乱を起こしている。広がりの知性は確かに緻密で計算能力に優れ、極めて明晰であるかのように見えるが、それは差異を知らないゆえに致命的に「混雑化している」。
物質は数量化が可能な延長世界の産物である。しかし、精神=持続は延長的なものではない。ベルクソンによればそれは収縮であり、凝縮である。物質の母胎となる延長性はこの収縮、凝縮から分化した弛緩が生み出し、結果、それが物質の原理となる。物理法則は持続が生み出した結果にすぎないということである。つまり、精神から物質が生まれているのであって、その逆ではないということだ。
ベルクソンの思考を引き継いだドゥルーズはこの精神における〈凝縮-弛緩〉のプロセスを〈巻き込み-繰り広げ〉という差異化のシステムを通してより緻密に思考し、襞の生成論を作り上げた。
現代物理学が示しているミクロの空間構造をこのベルクソン-ドゥルーズの差異化の概念で注意深く追っていくと、実際、その通りになっているのが分かってくる。つまり、古典物理学から量子力学への移行の本質は、同一性=延長の物理学から差異=持続の物理学への移行なのである。
だから、延長性をベースに持った古典力学の運動量、エネルギーといった物理量は、量子力学にとっては二次的な産出物でしかなくなり、すべてそれらを導出するための演算子へと置き換えられることになる。つまり、波動関数とは差異化の数学的形式であり、それに作用させる演算子とは差異化をさらに差異化せさ、同一性(物理量)を結果として引っぱり出してくる、という精神構造自体が持った収縮から弛緩への機構をなぞっているのだ。
現代物理学の表現形式はすでに同一性から脱しているのだが、いかんせん、世界観の方はまだまだ同一性に囚われたままでいる。そのため、物理学者たちは量子力学が持った数学的形式の意味が皆目分からない。なぜ複素数なのか、なぜ確率なのか、なぜ非局所的相関なのかetc。
量子力学の本質を理解するためには、このように差異化の思考、つまり、延長ではなく持続をベースにした「永遠の相の下で(スピノザ)」の思考が必要なのだ。僕がいつも「奥行きのもとの思考」と言っているのも、この思考のことにほかならない。
福山では、こういった内容をできるだけ分かりやすく話していければ、と思っている。でも、2時間じゃ無理かな(笑)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: スピノザ, ドゥルーズ, ベルクソン, 唯物論, 波動関数, 量子力学