6月 19 2017
アセンションを鼻で笑う人たちへ
量子系においては、運動量と位置、エネルギーと時間のように、その測定自体が互いに排他的であるような物理量の組が系全体の性質を特徴づけている。こうした組の由来はすべて奥行きと幅の直交関係に由来すると考えるといい。幅を見るときは奥行きを使い、奥行きを見るときは幅を使っているということ。
この関係が知覚に現れたものが、遠隔化と収縮、近接化と拡大の関係だろう。物体は近づくとその見えは大きくなり、遠ざかると反対に小さくなる。観測者が近づくと世界全体の見えが大きくなり、遠ざかると反対に小さくなる。これらは、この運動量・位置、エネルギー・時間の双対とおそらく深く関係する。
量子的事象の遠隔的相関はすべて持続(記憶)における相関であって、決して物理的空間における相関ではない。たとえば、「この腕時計は20歳の誕生日に父からプレゼントされたものだ」といったような場合、時空を隔てた腕時計の認識が一致している。量子はこうした再認のシステムとしても暗躍している。
量子系の状態を決して物理的物体でイメージしてはならない。それらは奥行き(持続空間)が作るわたしたちの内在性の仕組みが、幅世界(時空)において”収縮の中に現れたもの”であり、量子的粒子の本性は、すべて持続空間をベースに活動している理念的、形而上的な、いわば精神の力である。
「わたしたちの外部に巨大な宇宙がある」という旧態依然とした客観宇宙のゲシュタルトを、時代の精神自体が解体しにかかっていることにもっと敏感になろう。存在は今、人間に時空という場所からの意識の撤退を要請してきている。
「アセンション」というと、鼻で笑う人たちがほとんどだが、この移動は形而上的な無意識が顕在化してくるという意味では、高次元意識への次元上昇と言えないこともない。いざ波が来たときに慌てないためにも、「こういうことも起こりうるのだ」と、多少は柔らかい頭を持って備えておく方が賢明だろう。
スピノザ、シェリングが夢見た物質と精神の一致。自然世界と理念世界の相互関係を看破した二重認識。今では哲学者さえ見向きもしなくなった世界観だが、こうした全一的・有機的な存在論が常識として語られる日があと数十年もすればやってくると勝手に思っている。そうなれば人間は少しは変われるかも。
※下イラストはhttp://bokete.jp/odai/1900575よりお借りしました。
6月 28 2017
なぜ奥行きの発見が重要なのか
僕らが持った世界観の一番の問題点は、世界を見る眼差しが一般化してしまっていて、自分を一般/特殊の関係(人類と人類の中の「自分」という個別性)の中でしか捉えることができなくなっているところにある。これは経験から立ち上がってきた関係性だから、そうした見方の中では、いつまで経っても創造的な領域には出ることはできない。
ほんとうの世界はそうはなっていないんだよね。それが量子論が差し示している「非可換」という概念の本意なんだ。非可換とはAB=BAが成り立たない世界のことを言う。つまり、AB-BAがゼロにならない世界のこと。
意識との関連で普通、量子論が話題になるときは、「量子は粒子でもあり波動でもある」とか、「時空を隔てていても繋がってる」とか、そんな話が真っ先に上がるわけだけど、一番大事なことは、この非可換性。「すべてが一つ」とか言って、この非可換性について語らない量子論スピは危ないから、気をつけて(笑)
奥行きの発見がなぜ大事なのかというと、奥行きがこの非可換性とダイレクトに関係しているからなんだよね。
どういうことかと言うと、奥行きは特異なもの(単独性でもいい)であり、他のそれとは決して交換できるものではないということ。ここに尽きるね。哲学者のメルロ=ポンティが生涯、この「奥行き」にこだわって思考し続けた理由もそこにあるんだけどね。
僕らは普通、奥行きに幅(距離)をもたせて空間をイメージしている。奥行きに距離を持たせてしまうと、「見ているもの」は単なる肉体になってしまう。最初に言ったことだね。そういう考え方をしてしまうと、奥行きは単に僕の目の前にある距離というかたちで、一般性の中の個別性になってしまう。これは時空の一部だから、他者のそれと変換が可能だ。あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見えるはずだ、という思い込み。物理学的には、それがローレンツ変換というものに対応している。時空上の座標の変換を行うわけだね。
実際、過去の哲学者たちの多くも、自分の眼差し(奥行き)をそのようにしか扱っていない。真正の奥行きが持つ「単独性(特異性)」というものがよく意識化できていないんだ。
実は、この距離としての奥行きの下に、一般性/特殊性を逃れた特異性(決して交換できないもの)の眼差しというのが存在していて、それがヌーソロジーが「真正の奥行き」と呼んでいるものだと思っていただければ、と思う。
じゃあ「それは何処に?」ということになるわけだけど、それが無限小の複素空間という場所にある、と言ってるわけだね。いつも言っている、奥行き=虚軸とはそういう意味。奥行きに距離が見えないのも、奥行きが射線そのものとしてミクロに入り込んでいるからであり、その入り込みが君自身の精神(持続)そのものの有り様だと言っているわけだ。
で、その世界では、最初に言った非可換性というのは[x,p]= xp-px = i(h/2π)というかたちで現れる(物理学では位置xと運動量pの交換関係という言い方をします)。xは幅、pは奥行きと考えていい。つまり、幅が先行するか、奥行きが先行するか、その両者の間にはi(h/2π)という差異があるということ。このi(h/2π)の「i」とは虚軸なわけだから、ここに現象が立ち上がっていると思うといいよ。そこから、幅側に落ちるか、奥行き側に止まるかは、君次第ということになっている。まぁ、もっとも人間の場合は全員が幅側に落ちてしまっているわけだけど。
この場所は、もはや特殊性(経験的自我)の居場所でなく超越論的なものの場だ。超越論的なものの場とは、経験的な意識を成立させている(無意識的な)諸条件を形作っているところと考えるといい。語弊はあるけど、「ほんとうの君がいるところ」と言った方が分かりやすいだろうか。
それが見え出すと、時空は受精卵さながらに卵割を開始する。いや、これは比喩じゃないかもしれない。実際に受精卵が卵割を行って胚珠へと分化していく力は、人間の意識がほんとうの奥行きを発見していることと深い関係を持っている。
でね、時空という一つの領域が、卵割を始めると、次のような配置を取ると思って欲しい(下図参照)。
この図は、自己と他者が自分の真正の奥行きを発見して、奥行きと幅を虚軸と実軸に見なしたときの関係と思ってもらえばいい。
この二つの円は平面上でどう回転させようが決して重なり合うことはない。このことの意味をじっくりと考えてみて欲しいんだ。つまり、「あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見える」というのは全くのウソだということ。
一人一人が見ている宇宙は実は全く別物であるということを、この二つの複素平面の関係は物語っているんだ。
時空からのこの分離を意識化するところから、超越論的なものの意識(これも語弊があるけど、とりあえずは高次の自我意識と言っていい)への浮上が始まっていく。
右側の複素平面を右に90度回転させると、すぐに分かると思うけど、この二つの複素平面はいわゆる複素共役関係(虚軸の関係が互いに逆になっているということ)にある。数学では、複素共役は複素数を消し去り、実数だけの世界にしてしまうよね。それは自己と他者を一般性の空間に投げ込んでいることの数学的表現だと考えるといい。単なる数学操作なんかじゃないってこと。
今の社会は実数の世界しか知らないから、「おまえの代わりなんかいくらでもいるんだぞ~」とか言って、一人の人間をまるで物体のように扱う。時空と物質だけで世界を考えていると、必ずそういう「我-もの」の関係でしか他人を見れなくなるんだね。
「バカヤロー、オレにだって心というものがあるんだ!!」と叫んだところで、誰も聞いちゃくれない(笑)。
しようがない。世界の見方が歪んでいるから。だって、どんな人でも程度の差こそあれ、「我-もの」でしか世界を感じ取れなくなっているから。真正の奥行きが消え去った空間で生きているからどうしようもない。ここにはブーバーがいうような永遠の〈我-汝〉は現れようがないんだね。
さて、奥行き=虚軸、幅=実軸という考え方で、物理学の世界を探査していくと、そこはもうほとんど超越論的なものからいかにして経験的自我が生まれてくるか、その仕組みの精妙な見取り図のように見えてくる。つまり、人間の経験的自我を超越論的に条件付けているものが、実は物質の基礎である素粒子になっているということが分かってくるということだね。素粒子は物質なんかじゃないんだよ。とにかく、その認識が必要。
そこで、当然、次のような疑問が湧いてくる―じゃあ、素粒子から作り出されているこの大自然って一体何よ?
いいこと、聞くねぇ~。そう、その方向に「未知」を見よう。そして、その方向に世界を感じ取っていこう。言葉が古めかしく聞こえるかもしれないけど、それが古人(いにしえびと)たちが霊界と呼んでいた世界なんだ。
そして、そこは、生きながらにして入ってもいける。素粒子というものは、その入り口になっていると思うといいよ。
今回は長文すぎたね。ごめん。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: メルロ=ポンティ, ローレンツ変換, 奥行き, 量子論