4月 23 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その4
さて、この『ラス・メニーナス』の中に組み込まれている幾つかの視線が織りなす構造についてヌーソロジーの観点から大まかな分析をしてみることにする。以下の内容は、まもなくこのブログで連載しようと考えている『4つの無意識機械』の内容の伏線とも言っていいものなので、とりあえずはヌーソロジーが意識構造をどのように読み解いていくのかその方法論についてのダイジェストとして目を通していただければ幸いである(最下部に示した図1参照のこと)。
まずは次のような前提を設けて構造の骨格を抽出してみよう。
1、この作品は王の視野空間が表象化されたものである。
2、窓から入って室内を満たしている光は作品内の向かって右手側からの光の入射によるものである。
3、鏡に映し出されている空間は王が感覚化している王の背後の空間である。
4、画家には王の背後の空間そのものが見えている。
5、キャンパスに描かれている像は画家に見えている像の模写である。
6、階段の男はこの部屋全体で起こっている出来事を俯瞰する位置にいる。
7、他の人物や犬についてはとりあえずここでは取り上げない。
1、第一の軸——王VS画家、もしくは前と後
王の前方に画家が立ち、王はその画家に見つめられる存在としてキャンパスの背後側に立つ。しかし、ここでいう王とは、この作品によって示されているように王と呼ばれるようになる以前の者の目前に生起している現象でしかなく、「王」という自意識の種はまだ視野世界そのもののと一体化した混沌としてウロボロス的状態を保っている。そのような状態としてこの絵を見れば、当然、この絵にはいかなる意味も与えることはできない。画家も鏡も鏡に映る王自身も、そして、画家のキャンバスも、窓から入り込んでくる柔らかな光線も、それはサルトルのいう木の根っこと同じく、嘔吐を催すような不気味な光の模様でしかないだろう。それは言葉で名指される以前の風景であるがゆえに世界のありのままの様態とも呼べるし、そこからやがて王が立ち上がってくるという意味において主体の起源とも言える。
「前」が現象として文字通り現前した後、前はいかにして「後」の存在を知りうるのだろうか。本来、決して見えることのない「後」を「前」に架空させているものとは一体何なのか。それはおそらく「眼差す」という能力を持った特異な点が主体=「前」の中に混入されて出現しているためだと考えられる。それがヌーソロジーが「真実の人間」と呼ぶ他者そのものとしての他者である。この他者は普段、われわれが日常的に対面している他者ではないことに注意してほしい。主体はこの「眼差すもの」によって眼差されることによって「わたし」というイメージを確立させ、その後、その類似したイメージをこの「眼差すもの」に当てはめることによって「他者」という概念を形成する。だから「わたし」というイメージが生まれてくる以前の「眼差すもの」に対してはそれが誰なのかを言い当てることは原理的に不可能である。このようなアンタッチャプルな他者のことをラカンは「大文字の他者」と呼んだ。未だ意味を与えることのできない原光景の中にはこのように大文字の他者が特異点として入り込んでいる。
その把握不能とされる大文字の他者の眼差しをこの作品における画家の眼差しに重ね合わせてみよう。画家はモデルとしての王を見つめている。ここで画家が筆を下ろしているキャンバスには画家自身の目に映っている風景が描かれているのだろうが、キャンパス自体は王に対しては背側を見せているために、王はその風景、つまり、画家に見えている自分を直接知ることはできない。王にできることは奥まったところにある鏡に映し出された像を通して自分の像を想像することだけである。しかし、キャンパス上に描かれた王の像と鏡に映し出された王の像には絶対的な差異がある。なぜなら、鏡像は左右を反転させてしまうからである。このことは画家に見えている世界と王が画家が見ている世界を認識することには本性上の差異があることを暗示させている。
画家の眼差しに晒されることによって王は自分という存在の位置を空間の中のある一点として定めることが可能になる。しかし、その位置を自分が認識する限りにおいて、それはあくまで鏡像の位置である。ウロボロスのまどろみにいた現象そのものとしての意識の居場所はこうした原光景内部にセットされた他者の眼差しによって世界からべりべりと引きはがされ、やがては肉体(瞳孔)と呼ばれる位置へと見事に遷移させられていく。世界の内部にまどろんでいた主体が世界から追い出されるという意味では、この引き剥がしは世界自身の排泄行為とも言える。世界とのカオティックな一体感から鏡像段階を通しての外部への疎外。これをフロイトのいう口唇期から肛門期の意識発達に対応させてみるのも面白いかもしれない。
世界から排泄される運命にあるもの――これがヌーソロジーでいうところの付帯質の意となる。作品自体に表された原光景を光に満ちた昼の世界とするならば、原光景たる王の視野空間が自身の肉体を感じとっているこの付帯質の位置は「後」であり、それは光を失った闇の世界でもある。つまり、王が「わたし」を目に映し出された光景の手前側に想定するということは、後ろを見ているということと同意であり、この後ろは画家にとっての前(それは昼の世界であるはずだから)とはまた違ったものとなっているということである。
画家に自分がどのように見えているかを王がいくら正確に描像したとしても、それが王側からの描像である限り必ずや鏡像と化してしまう。われわれが人間と呼んでいるものの観念的基盤はおそらくこの鏡像体にある。「前」そのものであった主体としての面はそこで裏面へと反転させられ、仮の面(ペルソナ)としての顔(パーソナリティー)を持たされるのだ。しかし、世界は一体何のためにこのような合わせ鏡の仕組みを用意してきたのか?世界に人間が存在しなければならない理由。世界に自己と他者が存在している理由。自己と他者のそれぞれがお互い自身の発生の起源として相互反照的に位置づけられている理由。それは一体何なのか。ここにヌーソロジーのいう「対化」という概念の本質がある。創造が「二なるもの」の分化から始まったとするならば、われわれはこの「二なるもの」をわれわれが自己と他者と呼ぶ「我」と「汝」の中に見出さなければならない。そして、その「二なるもの」とはわれわれが「前」と「後」と呼ぶものと極めて深い関係を持って構造化されている。
——つづく
5月 27 2009
地球から広がる空間について、その3
●身体空間を絶対不動のものとして見ること
不動の身体という場所に出て「前」を見るとき(さっきも言ったようにヌーソロジーではこれが4次元空間(正確には4次元の回転軸)に入るという意味になります。次元観察子ψ5の位置です)、そのとき感覚化されている身体上で相互に直交しているように感じられる前後、左右、上下という三つの方向性は、身体をどのように運動させようとも決して入れ換えることのできない独自の方向性をそれぞれが持っていることが分かります。前-後はどうあがいても前-後ですし、左-右は常に左-右ですし、上-下は絶対的に上-下として君臨しています。これら三対の方向性が意識の成り立ちに対してどのような役割を演じているかについては人によって感じ方は三者三様かもしれませんが、たとえばシュタイナーは前-後軸を感情が働く位置とし、左-右軸を同じく思考の働く位置、上-下軸を意思の働く位置としています。これはヌーソロジーが前-後軸を想像界的軸、左-右軸を象徴界的軸、上-下軸をそれら両者の交換ならびに統合軸と見ることととても似ていると言えます。ヌーソロジーではこうした身体内部において意識が感じ取っている3軸によって感覚化されている身体空間を4次元に始まる二段階の直交性(単純にユークリッド空間として考えればこの空間は6次元の空間ということになります)として考えています。
前後軸——4次元
前後軸+左右軸——5次元
前後軸+左右軸+上下軸——6次元
です(下図1参照)。
前々回まで7回にわたって書いた記事『ラス・メニーナス』で詳説した内容は、この絶対不動の身体空間における前-後、左-右、上-下という三つの方向性が人間の意識発達に対してどのような役割を果たしているのかを現代思想の側面から簡単にまとめたものだと言えます。実際、フーコー、ドゥルーズといったポスト構造主義の思想家たちはフッサールの現象学が模索した超越論的な意識構造や、さらにはフロイト-ラカン派の精神分析などが著した無意識構造に関する理論の大方を踏まえた上で、近代的自我が持った自己同一性の解体に果敢に挑みました。彼らが共通して問題としているのも、上下方向の高みに立って世界を俯瞰している近代自我に内在化する権力的な視線についてです。地球を宇宙に浮かぶ一個の天体のように見おろしている視線。こうした視線によって近代以降の人間は人間自身を地球というちっぽけな惑星に生きるアメーバのような生き物として表象しています。こうした視線は僕ら現代人の意識の奥底にも深く食い込んで、自身の自我境界を悪い意味で頑に防衛している力にもなっているのです。この視線を解体し、実存としての生きられる空間に「わたし」の意識をどのようにして再帰させていくかが現代思想にとっての一つの大きなテーマになっていると言えます。
さて、「地球から広がる空間」と言った場合、人間の内面領域(外在世界)においてはそれはモノから広がっている空間と何ら変わるところはありませんが、人間の外面(不動の身体空間)という世界を考慮すると大きく事情が違ってくるのが分かります。なぜなら、地球上にはそのような人間の外面を持っていると想定できる身体がそれこそ無数存在させられているからです。わたしにとって他者の身体からの広がりはそれこそ物体から広がる3次元と同じようなものとして見えていますが、他者はその3次元の広がりをおそらく「わたし」同様に意識的な広がりとしても感じていることでしょう。とすれば、単に3次元と見なされている地球からの広がりには他者が感じ取っている身体空間(6次元空間)が重なりあって存在しているということになります。
逆に人間の内面を考慮して、他者の身体を単なる物体と見なしても、この場合さほど事情は変わりません。多少恣意的になりますが、他者を大地に直立して活動している物質的身体と考えてみることにしましょう。他者が地球上を自由に動き回った場合、そのときの他者にとっての前-後と左-右という方向性は地球を覆う球面方向に集約されているのが分かります。このとき「地球から広がる」と表現されている空間は他者の上-下方向に対応していることになります。つまり、地球から広がる空間の方向性は他者の身体においては他者がどのように動こうとも上-下方向となっており、これは絶対不動としての他者の身体から見た上-下方向と全く同じです。このことは人間の外面を考慮して見たときには地球(の原点)から広がる空間は4次元時空というよりも6次元の空間として見直さなければならないということを意味しています(下図2参照)。
そして、このような絶対不動の他者が地上には無数と言ってよいほど存在させられているわけですから、この6次元空間は無数の他者空間を許容する自由度を含みもって多様体化していると考えられます。つまり、「わたし」にとっての地球から広がる空間は他者の全体の外面が息づいている空間として見ることが可能だということです。その意味では、この時点で地球から広がる空間は6次元空間の回転群と並進群を重ねあわせているということになるのかもしれません。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, フロイト, フーコー, ユークリッド, ラカン, 内面と外面