4月 8 2006
聖杯とは人間のことである
mayuさんへの返事
ヌース会議室の質問【4001】に答えて。。
神は六日間で人間以外の自然物をすべて創造し、七日目に人間を作った。そして、自らは世界から身を引き、束の間の眠りに入った。神が再び目覚めるのは八日目の光のもとでである。しかし、神は一体何の目的で人間を創造したのか——。
人間は神の被造物の受取人として、諸々の存在者の前に立たされる訳ですが、これは言い換えれば、人間が神の被造物を受容する器でもあることを意味するのだと思います。で、ここで一つの疑問が湧きます。それは、この器なる人間は果たして本当に神の被造物なのだろうかということです。あらゆる創造物は場所がなければ存在を示すことができないわけですから、受取手としてのこの場所も、果たして神が作ったのだろうかという疑問が出て来て当然です。僕はおそらく人間は神が作ったものではないと思います。人間は神に対して治外法権を持っている。神の言いなりにはならない。というのも、この器は神には作り出すことはできないと思うからです。
創造を手渡す者と創造を受け取る者。これが最後者であるΩと最初者であるαの関係です。その意味で言えば、僕ら人間が経験している光とはΩの光であり、神は「光あれ!」という号令のもとに、その光をαを生むべき永遠の女へと手渡したのだと思います。僕らは、今日も物質を通して、燦々と繰り出される光を自らの受容器に溜め込んでいるわけです。
しかし、受取り手が二人いた。つまり、αが二つあったということなんですね。すなわち、二人の「我」です。しかも困った事に、このαとαはお互いを確認するためにお互いを取り違えてしまうというとんでもないミスを犯した。そのため、二人のαはΩのようになってしまい、あたかも神の亡霊が取り憑いたかのように振る舞ってしまう。こうした逆転写の場所が水の鏡なんですね。そこではΩなるものの全履歴である霊が物質として射影されている。
水の鏡の中では、人間は器に注がれてくる光を自分だと気づくことができず、つねに自分がΩだということを信じて疑わない。実際、現代人の多くは人間は宇宙進化の最後に現れてきた者と信じています。そして、何はばかることなく自らを「主体」と呼ぶ。神との契約によって世界を一任された者。神の祝福を与えられた者。こうしてユダヤ-キリスト教者が登場してきます。僕が常々、「ユダヤ的契約の解除」と言っているのは、この逆転写によってできた結び目をほどくことを意味しています。
水の鏡の中は言葉で満ちあふれています。というのも、名付けられたものはすべて神の履歴ではないかと思えるからです。名は同一性を与え、差異を無化します。名をすべて捨て去るということは、その器自体へと変身を遂げるということを意味します。こうした器が聖杯と呼ばれるべきでしょう。これは注がれたものではなく、始めからそこにあるものであり、あったものであり、あるであろうものではないかと思えます。中身を破棄した器は当然、孤独な存在です。しかし、この器の浮上は、言い換えればアルケーですから、孤独というよりもタブラ・ラサのような純白の存在ではないかと思います。真っ白だからこそ、アルケーの精神は再度、創造のデッサンを描き始める。器とは永遠の女。母なるもの。男を超えたもの。神が愛す真の無限。僕はこのアルケーにプラトンが語った「コーラ」をだぶらせていますが、これがおそらくイデアの中のイデアだと思います。そして、それはおそらく人間が素粒子と呼んでいるもののことです。
さて、ヌースの話にもどりましょう。顕在化した人間の外面には、もはや、物質は存在しません。供物を捨て去った器が生み出す最初の力ですから、そこには理念以外いかなるものも存在していないと言えます。もちろん他者の顔ともサヨナラです。魂の顕在化とは、そうした超越論的な個体の大地に立つことではないかと思います。
4月 26 2006
身体=空間
最近、生業の方が忙しい。喜ばしいことなのだが、一方でヌースの思考空間に身を置く時間が削られるのが何とも残念だ。コウセン2号が欲しい。。
ヴェーダ哲学では十字架は「土地=コルプス」を意味し、それは人間の身体のこととして考えられていた。身体なしでは世界は開示し得ない。身体は次々に未開の現象を切り開く。身体無しにこの「空け」が存在しないことを考えれば、身体とはまさに未開の大地と言っていいものである。身体のあるところ、そこに大地が開かれる。ならば、水の惑星地球のイメージは、僕ら人間の潜在的身体そのものと重なり合う。身体に意味の場が託されているとするならば、人間の思惟の中に湧き上がってくるすべての意味の生成は、この地球に捧げられた供物なのである。
こうした眼差しで地球を見れば、大気圏はさしずめ皮膚の眷属に見えはしないだろうか。大気圏は薄い光のヴェールに覆われているが、以前にも紹介したが、ユダヤ教のミドラーシュの教えによれば、光を表す「Or」が、皮膚を表す「Or」に変化していった とき、ジェンダーの原初的分裂が起り、女性という存在が生まれてきたと説いている。光が皮膚へと変容するとき、僕らは拾い集められた光の集積場所としての身体、つまり土地=コルプスを再獲得することになる。これは霊体としての地球と月との間に敷設された交通空間でもあるだろう。
こうした惑星レベルの神経ネットワークへとジャック・インするためには、空間の重畳を見抜く視力を持つ必要性がある。近代が陥ったモノとしての3次元性と、近代以前の共同体的身体の3次元性(共通感覚的な空間と言っていい)は全く別の空間階層である。これら両方の空間の間にある差異を明確に意識に浮上させることできれば、僕らは科学主義的な見方のみで身体を分析するような愚行は犯さなくなるだろうし、また、逆に、物質を精神より劣ったものとする宗教主義的な見方の愚かさにも気づくことだろう。
具体的な解説は新著の内容に回すが、身体にとっての3次元性をヌース的に説明するとすれば、おおよそ次のようなものになる。
・前後空間………ψ7〜8………元止揚空間(エーテル体/物質体)
・左右空間………ψ9〜10………調整質空間(メンタル体(思形)/アストラル体(感性))
・上下空間………ψ11〜12………中性質空間(自我形成)
・ψ13〜14………対化の交替化の空間へ
これら観察子の序数が持つヒエラルキーの理由づけは極めて単純だ。
まず、ψ7〜ψ8について。意識がただ前後方向に向いているだけでは、前後という方向認識自体が意識に生じることはない。というのも、世界は「前」において開示はするものの、前方向に「世界がある」という「認識」は存在していないからだ。そこにあるのはただ光(見えるということ)に彩られた未解釈の原像であり、この原像は、原-知覚というべき、認識が起る以前の知覚の蠢めく領野でしかない。
「後ろ」は「前」の反映であり、それは光に対して闇を形成している。そこは知覚不能な世界であるから、知覚が存在であるとするなら、無と言ってよい世界である。しかし、この闇を前で見る手段が一つだけある。それが鏡の使用だ。鏡に映し出された「後ろ」。それは「無」へと逆転写された存在の虚像である。言うまでもなく、わたしが見るわたしの顔はこの後ろを率いる王の顔である。こうした暗闇の王を古代の人々はナルシスと呼んだ。——つづく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: アストラル, エーテル, ユダヤ, 中性質, 元止揚空間