3月 7 2019
思形空間と感性空間の相互反転性について―存在の思考のために
今回は、以前紹介した思形空間と感性空間の違いについて、実際にリンゴを見ている状態で説明しておきますね。
目の前にリンゴがあります。その周りには空間が広がっています。普通、わたしたちはこの空間の広がりを図1のようなイメージで捉えているのではないかと思います。
このとき空間の広がりは自分の方に向かってきているのが分かると思います。この方向性で表現される空間が思形空間です。自分の顔面を意識化させる空間の方向が「人間の内面」ですから、思形空間は「人間の内面」に存在していることになります。次元観察子でいうと、この空間がΨ4に相当しています。
一方、感性空間の方は私がリンゴを志向している方の空間です。その空間の様子を図で表すと図2のようになります。Z軸の方向が反転しているのが分かります。こちらはΨ*4です。
わたしたちは通常、空間を単に「3次元」と呼んでいますが、思形空間の3次元と感性空間の3次元は同じ3次元空間ではありません。互いに反転関係にあるんですね。
実際に思形空間の3次元と感性空間の3次元を重ねられるかどうか、座標軸を回して、試してみるといいでしょう。試すとすぐ分かりますが、ちょうど右手と左手を重ね合わすことができないように、この二つの空間を方向付けている3本の矢印は3次元空間の中では決して重ね合わせることができません。
この重ね合わせの不可能性は「物がある空間」と「その物をわたしが見ている空間」とが全く違った空間であることを意味しています。お互いの間には反転の捩れがあるのです。
「物を見る」ということが起こるためには、こうした3次元の捩れが必要になるということです。まずは、そのことを意識にしっかりと上げましょう。
さて、ヌーソロジーでは ―感性空間は「人間の外面」に方向を持ってる― という言い方をします。「人間の外面」とは、いつも、言っているように、真性の奥行き、つまり、持続空間の領域のことです。「図では潜在化した虚軸(青の破線)」として記しています。
感性空間はまだ幅化した奥行きですが、そこから幅を取り去ったものが純粋持続が活動する元止揚空間だと考えるといいと思います。
ヌーソロジーがいつも「考えるな、感じろ」ではなくて、「感じろ。そして、考えろ」と言うのは、感性空間さえをも超えて、この純粋持続の空間の中に入るための思考というものがあるからです。
感じることを可能にさせているもっと深い空間が、意識には存在しています。持続空間とはそういう場所だと思ってください。そして、この場所は対象から逃れた純粋な思考によって発見していくしかありません。
ここから始まるのは、ハイデガー風に言うなら「存在の思考」というものです。この存在の思考こそが、ヌーソロジーがヌース(能動知性)と呼んでいるものの働きだと考えていただければと思います。
記事の補足。
思形空間=「あるもの」の空間
感性空間=「いるもの」の空間
感性空間の下に眠る元止揚空間=「なるもの」の空間
という整理でいいと思います。
自分が世界に「いる」感覚は、
無意識の中に沈む「なる」の世界が与えてくれている。
「ある」の世界の方に意識が飲まれていくと、
「いる」感覚は希薄化し、
「いること」の意味を見失ってしまう。
「いるもの」は「あるもの」のために生きているのではなく、
「なる」ために生きている。
今一度、下図を見ながら、この文章の意味について考えていただければと思います。
「いるもの」から「なるもの」を目覚めさせ、「あるもの」の世界に出ることによって、「あるもの」はようやく自分の本当の姿を見せるようになるということ。
ヌーソロジーが目指している世界は、そのような「ある」「いる」「なる」が一つの輪となって生きる調和の世界です。
3月 11 2019
大西さんによるヌースレクチャーレポート
ヌーソロジーがドゥルーズ哲学と相性がいいことは、昔からレクチャーあたりでも話していますが、とても難解な哲学(言葉使いが必要以上に晦渋)なので、あまりヌーソロジーとの関連でドゥルーズに触れてくれる人はいません。
大西さんのように、こうして古いレクチャー資料を大切に読んでいただけているのをみると、ほんとに嬉しくなります。歴史上の哲学的知識もヌーソロジーにとってはOCOT情報と変わらないくらい重要な情報なんですね(^^)。
最近は、ハイデガー哲学の話ばかりしていましたが、それは単に今までハイデガーをまともに読んだことがなかったからで、哲学的な思考を一人の人間の個性とするなら、個人的にはドゥルーズの個性の方が好みです。
ただ、ハイデガーはちょっと可哀想かな………。
ドゥルーズはハイデガーの存在論的差異の哲学にとても大きな影響を受けているのですが、ハイデガーの中に垣間見える同一性への回収(おそらく、民族主義や集団主義的なもの)を嫌って、ハイデガーについては多くを語りませんでした。ドゥルーズ哲学は徹底した霊的個体化の思想なんですね。
そのためにドゥルーズ哲学とハイデガー哲学に見られる類似性を指摘する研究者は少ないんです。ヌーソロジーから見るとその存在論の骨格はまったく同じなんですが。。もちろん、ヌーソロジーも同じ方向を向いています。
何はともあれ、この両者は”グノーシス的”という意味で、両者とも極めて「スピリチュアルな哲学」ではないかと思っています。
哲学の本は慣れないとほんとに読みにくいですが、霊性思想に対するリテラシーを上げるためにはとても重要な知識で溢れています。女性には合わない部分があるのは重々承知していますが。。男性臭があるのは否めません。なんと言っても、西洋の男たちの思考の歴史のようなものですから。
一言に、スピリチュアルと言ってもピンキリですから、変なスピリチュアルに持っていかれないように、伝統的なオカルティズムや、哲学の知識も、少なからず触れておいても損はないでしょう。
ヌーソロジーがレクチャーで、哲学やオカルティズムを紹介するのは、もちろん、それらをヌーソロジーと対比させてみていくためでもあるんですが、そういう別の理由もあるんですよね。スピリチュアルリテラシー……これ大切。
ヌーソロジーも、単に「OCOTかく語りき」を話してたんじゃ、人間側の主体性がなくなって、クーソロジーになってしまいます。糞ロジーね(笑)
ですから、これからも、哲学は並走させます。
大西さんレポート
ドゥルーズ=ガタリのアンチオイディプスについて、ヌースレクチャー2014vol.4を見ながらメモしたものです。
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オイディプスという物語が示しているのは、
父を殺す=神を殺す 母を犯す=自然を壊す
オイディプスは人間の宿命なのだ、ということ。
家族も機械に含まれた一部品。
主体というのは存在しない。
すべては機械なのだ。
構造にマシンのイメージを重ねていく。
機械を生産しては接続させて、欲望する無意識機械。
人間という意識主体が文明や歴史を作ってきたのではない。
文明がシステムに合った人間を生産してくる。
教育も人間性を育てるなんてものではないのが現実。
原始土地機械、専制君主機械、資本主義機械の三つの欲望機械の変遷を通して、無意識の運動の中に潜んでいる抑圧者を告発していくのがドゥルーズ=ガタリ。
「器官なき身体」という脱人間像、脱意識像を掲げ、人間の人間自身からの開放を過激に訴えていく。
抑圧がない。常に反発の流れがある。
それがエス=器官なき身体
エスを目覚めさせるための機械=独身機械
欲望機械と器官なき身体を和解させるための機械として出てくるのが「独身機械」
アーリマンとルシフェルを統合するキリスト意識みたいなもの
「この間に本当の和解が実現されうるのは、『抑圧されたものの回帰』として機能する新しい機械の次元においてでしかないように思われる。」
「独身機械は何を生産するのか、独身機械を通じて、何が生産されるのか? それは強度(内包)量である。ほとんど耐え難いほどの純粋状態における強度量の分裂症的経験が存在するのである。」
「ここには、強度の諸地帯、もろもろの潜勢力、もろもろの閾と勾配以外に何も存在しない。」
強度とは奥行きの中にある持続の事
そしてそれは素粒子として見えている。
これはまさに素粒子が目覚めるというイメージ。
そこに真の経済圏がある。それが宇宙を作っているのだから。それは純粋なる贈与なのだ。古代の人々はそれを忠実に守って、贈与を流していた。貯めたりはしなかった。
神が実体を運び、贈与している、それを運び、贈与し、新たに生産していこうとしているのが、エスである。
エスはそれを望んでいるのに、人間が堰き止めている。
堰き止めを何とか開こうとしたのが、ドゥルーズ=ガタリなのである。
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最後にスフィンクスの語る言葉が朗読されるのですが、もうね、泣けて泣けてしょうがないですね。ほんとにね。資本主義機械というのが、人間のシステムの最後の学びの場であるとしたならば、そのことに敬意を表しつつも、最後には見事にスキゾって量子の内包空間に実体を見出していきたいものだと思いました。
もちろんこの先にはAI社会が待っているだろうけれど、同一性を見抜いて、やはり外面に逃走することを僕は選びたいなと思ったのでした。出来るかどうかどんな展開になるかはわかりませんし、もちろんどんな選択もOKなのだということはわかったうえなのですけどね。
そうだそうだ、それでいいのだ。と、天才バカボンならいうんだろうな。(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ドゥルーズ, ハイデガー, 素粒子