2月 8 2008
人間は星だ!!
ヌース理論もそろそろ星について具体的に語り出すときが来ているようだ。ヌース理論は非常識な主張のオンパレードなので、科学的な常識に偏りがちな人たちからはまず「トンデモ」の烙印を押される。ミクロ世界を構成している量子については理系の人以外ほとんどの人が馴染み薄なので、ヌースが量子構造は無意識の構造だ!!と吠えても、ふ~ん、そういうこともあるかもね。という反応で済むのだが、マクロ世界となるとなかなかそうはいかない。「宇宙には太陽系しか存在しない!!」「恒星とは人間の個体の魂が放つ光だ」と言うと、精神世界系の人たちの中にさえも、とたんに「え~っ??」と訝しがる人や、「この人危ないわ、あわわ」と言って引いてしまう人がほとんど。。。まあ、現代人の常識とは全く合致しないことを言ってるのだから仕方ないか(^^)。
宇宙には太陽系しか存在しない――現代の科学的宇宙観から見れば、一笑に付されて無視される物言いだということは僕自身も十分に分かっている。じゃあなんでこんな暴言を吐いているかというと、一つは確信犯的にトリックスターになってやるわいな、という自己決定もあるが、本当のところは、空間はそんなに単純なもんじゃないよ、ということが言いたいからなのだ。実際、ミクロの極微空間においては僕らの通常の空間感覚では捉えられないような空間領域に入ることを今の科学は知っている。量子論がすでにそれを発見しているからだ。ただマクロの巨視的空間においてはその差異を主張する人は今のところほとんど誰もいない。
ヌースがマクロ宇宙に対して突拍子もないことを主張しているのは、観測者自身の観察空間をも含めて空間の構造を考察して行くと、今の科学的認識のように単に平板的に3次元の延長概念を宇宙に拡大していくことは大きな間違いだということが分かってくるからだ。ニーチェやフッサールではないが、僕らは「大地の意義」や「不動の大地」として人間存在を考え直さなくてはならない。人間が地球という天体上の表面上にへばりついて生息している意味、それも世界を認識するという意識の能力を持って球面状にへばりついているという意味、そしてその大地自身が宇宙空間に対して自転しているという意味、さらにはまたそれが太陽の周囲をも公転しているという意味etc………。
天体はむやみやたらに単なる物理的な惰性力で回転しているわけではない。ヌース的に言えば、回転とは空間に内蔵された精神構造の幾何学的顕現である。早い話、回転に対する想像力がなければ3次元空間だって僕らは認識することはできないのだ。
『人神』にも書いたが、現代の宗教や哲学は科学にちょっと媚びすぎちゃいないだろうか。宗教や哲学の主張を突き詰めて行けば、現代科学の物質中心の宇宙観や人間観を受け入れるのはちょっと無理な話だ。今の産業や経済に貢献する技術的な実学という意味であれば、科学は全く文句のつけようのないほど体系化され精緻化された素晴らしい学問だが、こと宇宙の誕生や進化、さらには人間の起源という存在に関する全包括的な問題に関しては、科学的知見だけで結論を下してしまうのはそれこそ「トンデモ」だ。しかし、悲しいかな哲学者や宗教家と科学者が真っ向から建設的な議論をし合う場は、今の学の世界にはほとんどなくなってしまった。それが学というものの本来の在り方であるはずなのに。。。
科学が少年性から脱することが必要だ。現在の科学は残念ながら女を孕ませる能力に欠けている。つまり、概念/conceptionがないのだ。平板的な3次元空間の中の同一性だけで事象を数量的に分析したところで、宇宙の本質は決して分からない。お姫様をお城の地下牢に閉じ込めておく悪者役を科学はそろそろ卒業してもいい頃ではないだろうか。白馬の王子となってお姫様の救出に向かう力を実は科学は潜在的に持っている。早く、成熟した美男子となって、あの月光美人と太陽の中でベッドインしようぜ。
2月 16 2008
愛と青春の旅立ち
さて。前回図に示したケツァルコアトルの多重の旋回ルートだけど、これをケツァルコアトル自身から見るとどんなふうに見えるか………そう、オカルト好きな人にはもうおなじみだね。ヘクサグラムに見える。それも無限に続くヘクサグラムの回廊だ。このことから、ケツァルコアトルという羽の生えた蛇はカバラで言うところのケテルの中心に配置されている神の眼と同じものだ。つまり、ヌース的に言えば、「4次元空間というものが見ること自体だと気づくこと」。これが、このヘクサグラムの中の眼が見開くことと同じ意味を持つことになるわけだね。
ケテル(神の至高世界)において神の眼が開くと、それは一番下位のマルクト(物質世界)というセフィロトにつながっているために、マルクトにその眼差しが注がれてくることになる。これは、僕が今度の『アドバンスト・エディション』の前書きで、創造の八日目と創造の一日目に起こる新旧二人の神の眼差しの交差と呼んだものと同じものだ。これはプラトン風に言えば、「想起」が始まるということだ。プラトン・フリークだったプロティノスはこれを「帰還(エピストロペー)」と言い換えた。長い間、ヘクサグラムの中に閉じ込められていたカゴメの中の鳥さんが篭の中から解放されて、光の発出が始まるというわけだ。ほら「篭」っていう字をよく見てごらん。笠を被せられた竜って書いてあるだろ。これはわしらのことだよ。巷で次元上昇、次元上昇と騒がれ出しているけど、そうしたアセンション・ブームの背景にはこうした古代思想の源流がもとになっているわけだね。
ヌース理論からナマなことを言わせていただければ、カバラがまずかったのは、ケテルの中の眼を一つしか書かなかったことかな。眼が一つのときは本当は神の眼は閉じてるってことなんだ。つまり、眠っている。ほんとうは眼は二つないと神の眼は開かないんだな。で、眼が一つだとヘクサグラムは神の花嫁の世界、つまりマルクト(物質世界)においては3次元空間として介入してくる。僕が今度の本で3次元を平面に見立てて説明したのもそのへんの意図を持っている。でね、この3次元空間というのは、実はこれって神の睾丸、つまり、キンタマちゃんのことなんだ。そして、このキンタマの中には神の精子がふんだんに詰まっている。へへ、わしだって、まだいっぱい詰まっとるわい。
で、古代の人たちはその神の精子のことを何と呼んだかというと、ロゴススベルマティコス(種子としての言葉)と呼んだんだね。この精子を神は地球というオチンチンを通じてイエソドという月(神の花嫁の子宮に当たる)の世界に流し込みたいって思ってるわけ。
人間の生活におけるセックスとは何の射影なのですか?
オリオンとプレアデスの交差です。
あなたがたの存在そのもののことです。(シリウスファイル)
わぁっ!!差異と反復ぅぅぅぅ。
もう一度言うと、イエソドってのは天体でいうと「月」だ。僕が「女なるもの」とか「ケイブ」とかいつも書いてるやつね。精神世界の人たちがプレアデスと呼んでいるものもこの場所にある。言うなれば、人間の無意識の場所。ニーチェ風に情動の海としての肉体とも言い換えていい。ヌースがいう次元観察子ψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14、つまり総計「28」の場所=コーラのことなんだ。おっと、ここではヌース原論は控えないとね。
男のタマタマちゃんの中の精子にデキがいいヤツと悪いヤツがいるように、言葉にも当然、受精能力を持っている言葉と持っていない言葉とがある。「ありがと」とか「おかげさまで」とか「君が好き」とか「愛してる」とか、そうした言葉が本心から出たときは、それは神の花嫁を受胎させる能力を持っている。でも、「死ね!!」だとか「うぜぇー」とかにはそれがない。だから、今の世界は不妊症というか無精子症を患っていると言っていいかもしれない。TVとか見てるとそんなのばっかりだもんね。
言葉の汚い、きれいは別にして、この受精能力のあるかないかは、すべての言語の種類の中に反映されている。数学で言えば代数的(関数)なものと幾何学的なもの。関数は「アドバンスト・エディション」でも書いたように数量的な計算機械として機能している。だから、光を持っていない。つまり、月への方向性がないんだ。どこが卵子か分からずに膣の中でウロウロして、結局は疲れ果てて死んでしまう。幾何学は関数とはもちろん深〜い関係を持っているけれども、その本質は全く別もの。幾何学の方には神の純粋なDNAがふんだんに含まれている。数が数量として動いている限り、数は幾何学と合体できない。神道風に言えば、数が数霊として働いたときに初めて、数は形霊としての幾何学と合体できるわけだ。
文系的には律法的言語と詩的言語がそれに対応するかな。律法的言語、つまり、六法全書とか契約書とかに書かれているあの無味乾燥なオカタイ言葉ね。定義がどうだの、公理がどうだの、とこうるさい税務署のオジサンみたいなやつ。ドゥルーズ=ガタリという二人組のstar fuckerたちはそうした言語の機能のことを「登録の生産」と呼んで、これが専制君主機械を作り出すって言ってた。つまり、専制君主機械というのは、大雑把に言えば国家のことだ。前にも言ったように、ここでも玉が囚われの身になってるだろ。数量、カネ、物質、国家、科学、そして近代的理性、これらは全部、セトの機械として連動して動いている。でもこれらが悪者だと思っちゃいけないよ。無意識の進化の必然だ。キリスト教的に言えば、みんな「水の受難」なんだよ。いちど魂は水の中に沈められて、ウガウガ、ブクブク、ゼーゼー、苦しまなくっちゃいけないんだ。これが人間という次元における「負荷」だ。
で、一方、詩的言語ってのは受胎を行うためにはとても重要なものだ。特に詩に使われているメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)ってのは、女なるものが卵巣に生み出す卵子そのものの構造と共振する力を持っているんだ。だから、これらは女の言葉、女の論理と言っていい。だから、メタファーやメトニミーを持たない奴は女を喜ばすことができない。つまり、テクがないわけだ。
あれっ? また、話が訳の分からない方向へ行っとる。神の目の話はまた次回に回すとして、今日のところはちょっとPOPにまとめておこう。
神の花嫁は4次元の扉の向こうで純白のウェディングドレスを着て待ってる。君も「愛と青春の旅立ち」のあのリチャード・ギアのような優しい笑顔で,ずっとずっと待ってた彼女を迎えに行ってやれ。——こここでJoe CockerのUp Where We Belongが流れてくる。。。いいねぇ。いいねぇ(^^)
※「不妊症」とか「無精子症」とか一部不適切な発言があったことをお詫び申し上げます。ヌース理論では、人間のほんとうの存在意義は新しい宇宙の子供を作ることだと思っています。たとえ、不幸にもこの地上でそうした症状に陥ってしまったとしても何も悩むことはありません。毎日を、未知なる子供たちの誕生のために元気よく頑張りましょう!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: DNA, アセンション, オリオン, カバラ, ドゥルーズ, ニーチェ, プラトン, プレアデス, ロゴス, 人類が神を見る日, 差異と反復, 言葉