2月 26 2019
八つ裂きにされたオルフェウスの復活を!!
二重の国で歌声が
はじめてやさしく
永遠となる
―『オルフェウスへのソネット』リルケ
ヌーソロジーの文脈から言えば、素粒子の認識はハイデガーのいう「性起」というやつに当たるんだけど、これはハイデガーの歴史観でいうなら「新たな始元」に当たる。
人間の意識に素粒子認識が始まることによって、今までの歴史は終わり、新たな別の次元の始まりを迎えるということだ。これはドゥルーズのいう永遠回帰と同じものだね。
この「新たな始元」の自覚は、ヌース的に言うなら、時空的には無限大=無限小の覚知として開始されるのだけど、いつも言ってるように、この気づきは空間における幅と奥行きの交換によって思考可能なものへと転じてくる。
幅で空間を見れば無限大となるけど、奥行きで見れば、それは無限小に回収されるという意味だ。
同時にこれは他者構造(見られたところでの意識による世界構成)から自己構造(見るところでの意識による世界構成)へと向かう離脱でもある。他者視線を一度切ることによって、主観の下に眠っていた精神(持続体=存在)が目を覚ますってことなんだけど。
ハイデガー風に言うなら、これが「時空において最も遠くあるが、同時に比類なき近さとして現成する〈最後の神の到来〉」の意になる。
まったき奥行きにおいて人間は神(存在)と合流するってことだね。ハイデガーは存在のことを「根源的時間」とも呼ぶんだけど、これはヌースでいう持続空間のことを意味していると考えていいと思うよ。
今の僕らには、この持続空間が全く見えなくなっている。世界は硬直した物体の場所と化してしまい、それらはただただ有用性のもとに科学技術の対象としてしか見なされなくなってるでしょ。
ハイデガーは、こうした存在棄却の極まりにおいて「最後の神」が到来してくると考えてる。これもまたOCOT情報のいう「最終構成」の意味に近い。
ハイデガーによると、「最後の神」の到来は別の始元を発動させてくるんだけど、それは同時に、存在史的時空(今まで僕らが宇宙と呼んでいたもの)からの逃亡と、現存在(人間の意識)からの脱去を意味してる。
こうしたハイデガー後期の内容は、よくドイツ神秘主義の援用とか言って揶揄されるんだけど、僕からしてみれば、ほとんどルーリア神学(近代カバラ)をなぞっているかのように見える。「悪が混じった世界からの神の撤退によって創造が始まる」という神の逃亡劇による創造論のことだね。
だけど、こうした神秘主義的態度では、現在の圧倒的なゲシュテル(科学技術の本能のようなもの)の力を乗り越えることは難しい。科学的知性自身がこの最後の神の到来の合図に気づかないといけない。
合図に気づくとは―
空間を二重化させること。自らが脱去しつつ、自らを贈り届けるというかたちで虚的なものと実的なものが双対で協働している存在自身の空間を切り開くこと。
それがヌーソロジーが言っている「複素空間認識」の意義なんだよね。
オルフェウスは宇宙の万物の中にとどまり、そこから今もなお歌ってる。その歌声に耳を済まそう。それは持続空間に住む、まだ見ぬ永遠の我と汝のハーモニーと言っていいもの。
3月 5 2019
人間の調整質(思形と感性)の素描
OCOT情報が「人間の思形と感性」と呼ぶものの素描をツイッターでつぶやきました。下に紹介しておきます。下のケイブコンパスを見ながら雰囲気で感じ取ってください。
空間に整然とした構造が潜んでいるのが、徐々に皆さんにも分かってくるのではないかと思います。
ヌーソロジーに慣れ親しんでいる人はじっくりと構造を確認しながら、何度もじっくりと読んでみるといいと思います。
思形側の時間感覚。
過去は左。右は未来。
過去から未来に時間は流れていく。
感性側からの時間感覚。
未来から過去に時間は流れていく。
右から左への時間感覚。
横書きの文字と縦書きの文字を読むときの感覚の違い?
空間的には、
思形は物体側からの空間の広がりを感覚化させる。
感性は身体側からの空間の広がりを感覚化させる。
持続に関与できるのは感性側のみ。
思形と感性は反復している(第二の反復/ドゥルーズ)。
現在が表象化されてくるのは、思形が働きを持った後。
感性のみでは、瞬間的な現在は意識化できない。
思形における対象とは言葉による概念。
感性における対象とは感性の精神への関与。
物質とはあくまでも概念にすぎず、思形が感性を従属させたところに生まれる。
言葉の本質は精神の対化の等化。
言葉は自他の精神を等化した力が、結果として現れたものだということ。
人間の意識では付帯質として働く。
思形は付帯質に関与し、言葉を働きに変えて送り出す。
思形は客観。
感性は主観。
元止揚(物自体)をめぐる調整。
まずは、物から広がる空間と自分の身体から広がる空間というものを区別できる視力を持とう。対象から広がる空間は自分と物との関係しか作り出すことができない。一方、身体から広がる空間は精神(=持続)に関与することができているので、対化(自他の倫理的関係)に方向を持っている。
反転が理解できるのは感性側から。思形側から理解しようとしても反転はまったくつかめない。思形は付帯質を後ろに持つために、思考主体が肉体に固着化し、世界を頑なに対象化するクセがついている。感性は付帯質を前に持っているので、反転認識への抵抗が少ない。
思形的観測は対象の位置と時刻を持つ。しかし感性的観測の方は位置も時刻も不明瞭なものだ。どういうことか―たとえば花見に行く。見えているのは散りゆく花びらだが、そこには花びらの落下のイマージュのみならず、ときとして自分の人生のイマージュまでもが同時に想起され、風景と自分は一体化する。
これは感性が精神に関与できるからこそ起こっていることだ。知覚は常に記憶を伴う。知覚自体に記憶の層が取り付いているのだ。こうした高次の層をセッティングしているのが元止揚だと考えるといい。そして、それは奥行きに潜む持続空間としての素粒子の働きによるものと考えてみよう。
時間と空間でしか物を見ることができない思形は、そのような存在を「位置の重なり合いの可能性」や「非局所性」といった言葉でしか表現することができない。内なる精神が外に現れていることなど夢想だにしないがゆえに。
ポイントは対象に記してある3次元座標の向きです。向き付けが逆になっているところに注意。対象空間の方は幅化した奥行きが自分の方に向かってきているのに対して、感性空間の方は自分から出て行っています。実空間自体が反転して、二つの方向に分かれているのです。
そして、最も重要なポイントはこうした空間構造が自己と他者の間では真逆に構成されているということです。自他の空間の間には見えないねじれの構造がひしめいています。またそれが自他の意識構造にもなっているわけですが……。こうしたことを全く無視しているのが、今のわたしたちの世界認識です。
是正しましょう、空間を。そうすれば、素粒子から人間の肉体に至るまで、宇宙の全構成物に自己-他者(高次)の調和関係が根を下ろしていることがはっきりと分かってきます。今の世界観は何度も言うようですが、空間を見ていないために、それがまったく見えていないのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ケイブコンパス, ドゥルーズ, 素粒子