2月 18 2021
スターゲートに入ると、本当の宇宙がどういうものかが見えてくる
2019年ヌースレクチャー最後のテーマとなった題材はご存知「2001年宇宙の旅」。SF映画の最高傑作とも言われている作品だ。
話のポイントは、この作品に登場してくるモノリスという謎の物体の正体について。
たぶん、このモノリス の意味について、ヌーソロジーのような解釈をしている人は、世界中どこにもいないと思う。
モノリスが高次元存在による人類を進化させていくための誘導装置みたいなもの、ということは多くの人たちが言ってることだけど、それって一体、具体的に何なのよ??ということについては一向に語られない。
原作者のクラークやキューブリックも、そんなところまでは踏み込んでない。
映画の最後の方のシーンで、主人公のボーマン船長がモノリスの内部に入っていくシーンがある。
別名「スターゲート」と呼ばれるこのシーン。約10分ほど訳のわからない映像が畳み掛けてくる。公開当初はあまりに前衛的で難解なために、非難轟々だったとも言われてる。
ヌーソロジーはこのスターゲートに「奥行き」の覚醒を重ねて見ている。
実際、スターゲートのシーンのカメラアングルは、奥行きのパースペクティブのみだ。
ボーマンの主観の中だけで展開されていく。
以前、Raimuくんが紹介してくれていたように、キューブリックの作品はワンポイントパースペクティブ(一点透視)を使ったシーンが多いのだけど、「2001年」のスターゲートシーンのそれは、なぜキューブリックが一点透視を好んだのかを、キューブリック自身が無意識のうちに探って行ったような表現になっている。
自分の人生を振り返れば、すぐにわかることだけど、人間一人一人が各々生きている世界というのは、まさに、この一点透視の奥行きの中だ。
その意味で、人間は最初からスターゲートに位置づけられている存在だと言える。僕らは全員が星々からの使者なのであり、いずれは星へと帰還する。
このスターゲートの内部には一体何があるのか。
そこに入っていくのがヌーソロジー。
あっと驚く世界がそこには待ってる。
それは本当の宇宙とも言っていい。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
2月 24 2021
[宇宙紀の花・三島由紀夫]のご紹介 その1
今回は小池憲治氏の[宇宙紀の花・三島由紀夫]というフォトブック作品の紹介をして行こうと思う。
まずは、小池氏のプロフィールから。
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小池憲治 プロフィール
1951年 山梨県 現・北杜市に生まれる。
グラフィックデザイナーとしてのビジネスのかたわら、日本文化美術の仕事を継続し今に至る。
小林秀雄、白洲次郎・白洲正子夫妻の間のお孫さんである白洲信哉氏と二人で日本精神史を、新たなデザインで現代に再構築する協同作業を試みてきた。
<白洲信哉氏との主な協同作業>
・小林秀雄生誕百年記念展_MIHO MUSEUM他全国巡回展
(ドイツ・ライプチヒ”世界で最も美しい本”にて銀賞)
・白洲正子生誕百年記念展_MIHO MUSEUM他全国巡回展
・青山二郎生誕百年記念展_MIHO MUSEUM他全国巡回展
・日本最大規模の”根来_朱漆・中世に咲いた華”展_MIHO MUSEUM他
(日本の装釘・造本において芸術部門で金賞)
その他一連のDesignを統括・担当。
<日本美術誌「目の眼」表紙デザインを5年間連載>
日本において最も伝統のある美術月刊誌「目の眼」が2013年に白洲信哉を編集長に招聘し新装発刊。
白洲氏に表紙デザインを託され5年間担当。
畏敬する作家 吉本隆明・小林秀雄・A.ランボー・ジュリアングラック・M.ブランショ・三島由紀夫・半田広宣
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錚々たるメンツのしんがりに自分の名前が挙がっているのが、ムッチャ恥ずかしいんだけど、小池氏がそれだけヌーソロジーを高く評価してくれているということなんだろうと思う。
実にありがたいことだ。ここは、素直に喜ばないといけない(笑)。
小池氏と知り合ったのは2013年。
『奥行きへ―duree pure』という氏の作品集を送っていただいたのがきっかけだった。
その作品集は、当時、僕がTwitterでつぶやいていたテキスト群と、それにインスパイアされた小池氏の美的イマージュとがミクスチャーされたもので、ちょっとミステリアスで、高次元SF的な画像作品集のような体裁を取っていた。
僕的にも、ヌース的なつぶやきを作品のモチーフにしてくれたことがとても嬉しかったので、東京に出たときにお会いしてお礼の言葉を伝え、その夜は西麻布で酒を酌み交わした。
その後、断続的にメールのやりとりが続いていたのだけど、つい先月、「新しい作品集ができましたよ」ということで、そのpdfを僕の方に送ってくれた。それが、今回ご紹介する『宇宙紀の花』という作品集だ。
今回のこの作品、形式こそ前作と似てはいるものの、それこそ「日本心性」が全面に押し出されてるところが大きく違う。
クールジャパンならぬハイパージャパン、いや、もっと言うなら、アセンションジャパンといったところか^^。
陶器、茶室、能、古代の神器など、日本の伝統的精神の中に潜む端正なイデア美を幻想的にアレンジしてはいるものの、そこには、民族性も時代性も脱色させた、まさにノーボーダーでハイパータイム化された日本の心性がある。
静謐かつ硬質。かつ透明。
それでいて、柔らかなフローをも感じさせる空間表現。
三島由紀夫やブランショからの引用に沿って、ピッタリ並走する小池氏のテキスト。
どれも、「死の別様さ」の香りが漂っていて、とても心地よい。
おまけに、そこにカバラの「生命の樹」やヌースの空間構成の線が重ね合わされ、極めてアクロバティックに〈外の思考〉を表現した作品群になっている。
ということで、早速、紹介していこう。
この作品集は全体で80点ある。
80点を一気見すると、多分、失神するか、引きつけを起こすかのどちらかなので(笑)、全体を四つに分けて、それぞれをpdfにまとめ、皆さんには、一点一点、ゆっくりと味わってもらうことにした。
[宇宙紀の花・三島由紀夫](pdfはこのリンクをクリックしてください)
蛇足ながら、僕なりの解説も記しておきます。
[宇宙紀の花・三島由紀夫]
[1]………[宇宙紀の花・三島由紀夫]について___挨拶文
[2]………なぜ、宇宙紀の<花>なのか?___廃墟・非在・神・自由
小池氏の作品制作の動機が書かれている。僕自身は、三島由紀夫についても、ブランショ(※)についても、数冊程度しか読んだことがないので詳しくはない。ただ二人とも「死に抗う死」の存在をずっと直視しながら執筆していたことは確か。でないと、特に三島の場合、あんな死に方はできない。ブランショはそれと対照的に、100歳近くまで生きている。
※モーリス・ブランショ・・・フランスの哲学者、作家、批評家。
[3]………ゼウスの宮居と、日本の美は廃墟(非在)
古代ギリシアの神殿を「白亜」でイメージする人が多いが、近年の研究ではあのアテネのパルテノン神殿なんかも、日本の神社のように朱色等で色付けされていたらしい。他の建物なんかも極彩色でハデハデだったようだ。そうなると、古代ギリシアもオリエントや東洋と似通ったイメージになる。ソクラテス-プラトンに代表されるギリシア的知性以前に、より原初的なプロト-ギリシアが存在した。ハイデガーが語るフィシスの中に生きるギリシアだろうか。それは僕らが普通に抱いている古代ギリシアのイメージとは似ても似つかなかったものではないか。
[4]………シリウスから降ろされた日本の芸術
いきなり、シリウスとかなんやねん(笑)。ここが小池氏のユニークなところ。チャネリングカルチャーにも抵抗がなく、それだからこそ、ヌーソロジーにも関心を持ってくれたのだろう。それにしても、シリウス人って一体誰やねん(笑)。
[5]………主客と茶室_グノーシスの仕掛け
千利休は禅とキリスト教の思想を取り入れ、茶の湯を茶道にまで高めた。当然、このときのキリスト教にはグノーシス的なものが混じっていたことだろう。禅の思想も日本的にぼかされてはいるが、「十牛図」などは極めてグノーシス的なもの。
[6]………日本という合わせ鏡 八咫の鏡
この作品集の主軸にもなっている「八咫鏡」。「それが日本だ」と言い切る小池氏。とても小気味良い。ヌーソロジーでは、この八咫鏡のことを「元止揚空間」と呼んでいる。これは、まさに霊が産(む)す空間と言っていい。
[7]………利休の「待庵」と次元意識
普通、日本的美というと、たおやかで柔らかな曲線美がついイメージされがちだが、よくよく考えて見ると、日本は直線的でリジッドなイデア美というものもしっかりと持ち合わせている。いずれにしろ、無駄な装飾が一切ないのがいい。高貴な品性を感じさせる。
[8]………視線の庭_宇宙視点からの廻遊式庭園
廻遊式庭園というものに、こういう意図があろうとは知らなんだ。いずれにしろ、内宇宙はモナド的宇宙。ライプニッツが言ったように、そこには窓がない。しかし、互いを映しあう鏡はある。自己のモナドに他のモナドが映り込み、他のモナドには自己のモナドが映り込んでいる。その無限の映し合いが、世界を無限に豊かなものにしている。
[9]………能と鏡__宇宙霊と他者
能というと「翁」を思い浮かべる。そして、翁というと=「宿神(シャクジ)」かな。中沢新一氏がそのあたりのことを詳しく、美しく書いている。氏によれば、「宿神」のルーツは新石器時代までに遡ることができるという。そして、原-日本人が触れていた「存在」のイメージのようなものとして解釈している。「宿神(シャクジ)」とは「石神」のことでもあるよね。「石神」は物部神道の中にも受け継がれている。ヌーソロジーの「石神」解釈は、「付帯質の内面を構成する14の精神(ヒトの元止揚空間)」というもの。いわゆるヒトの精神。ちなみに、中沢新一氏は小池氏の幼馴染みらしい。
[10]………不在の源氏物語_三島由紀夫・ニーチェ・紫式部・ゾロアスター
言語の本質が非在にある。。か。いきなり本質的なテキストが並んでいる。
花は存在しなければならない。
空虚は荘厳されなければいけない。
ここにもフィシスの存在論が顔を出している。存在の場所に花が自らを見出すとき、同時に絶対の無に浸透されている。そして、その絶対の無に寄り添うように、言葉が、言霊が、その花を花として輝かせる_______そんな感じだろうか。
[11]………源氏物語のまどろみ_絶対の現在
絶対の現在。。。
一瞬から見ればそれは永遠に見え、
永遠から見ればそれは一瞬に見えるような、
絶対矛盾的自己同一(西田)としての「今」。
[12]………みやび生命体としての未来
「雅」は日本人の美的感覚を表す言葉たと思うが、「わび・さび」よりも華やかなイメージがある。例えば、満開の桜が散りゆく様。満開が永遠に続くものであるなら、決して「雅」とは呼ぶまい。
[13]………花という廃墟
小池氏は儚さと美の組み合わせが根っから好きなんだろう(^^)。ここでの重要なポイントは「未来エチカ」と言う表現ではないかと感じる。「エチカ」とは哲学者スピノザ由来で「倫理」と言う意味。日本語でいう「道」にも似ている。「倫」自体、「みち」とも読むからね。通常、日本的美の中に倫理的なもの(自他の共同性)を見る人は少ない。ここには「美とは倫理の表現である」という小池氏の美学観がある。
[14]………タイトル不明
これも「精神の外化」が主題となる作品。K氏のテキストにもあるように、本来、日本人は精神を自分の中にではなく、周囲に漂うものとして認識している民族だ。場の雰囲気や「KY」なんてのも、その表現の一つである。心の中とは外にある。その感覚を「奥行き」のもとに取り戻していくこと。
[15]………宗達とモノこころ
そう、三島由紀夫が言うように、私たちが日頃接している物質は空っぽなのだ。『シュタイナー思想とヌーソロジー』ではその空虚さを「ハリボテ」と表現した。物質がハリボテなら、それを見ている「私」もおそらくハリボテだろう。ハリボテの「私」はいつも中身が欠けている。
[16]………日本人とシュタイナー
シュタイナーは精神を外化させていく必要性を説いた。精神の外化は、日本人なら馴染みのある「ものごころ」と言う言葉に表されている。物は心なのだ。しかし、今のほとんどの日本人は物に心があるなんて思っていない。だから、もう日本人じゃない(笑)。
[17]………和歌の内部には神に続く歩廊がある
シリウス由来であろう日本語は、中核にその構造を遺している______これはOCOT情報と同じ。
[18]………宇宙スメラギとみやび
三島の天皇観は正直よく分からないが、小池氏の天皇観はよく分かる。なかなか口に出せる言葉じゃないが、「誰もが天皇」と気兼ねなく言えるような時代を作りたいものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 三島由紀夫