4月 1 2021
「ヌース理論」から「ヌーソロジー」へ
2006年の秋頃だったかな。
当時、ヌースアカデメイアのサイトの方で「カフェネプチューン」という会議室を運営していたんだよね。
『人神』や『シリウス革命』といったヌース本を読んでヌーソロジーの存在を知った人がたくさん集まって来ていて皆んなで楽しくワイワイガヤガヤとやっていた。
ピーク時には1日千人近い人が訪れていたんじゃなかろうか。
とにかく、そのくらいの人気サイトになっていた。
あるとき、そこに荒らしがやってきてね、それも複数で。明らかに何らかの悪意を持って攻め込んできたって感じだった。
まあ、今でいう炎上というやつだけどその対応に四苦八苦したんだよね。
攻撃してきたのがどこの誰だかは分からないけど、やはり“理論”好きの連中で、僕が「ヌース理論」と銘打って活動していたものだから理論の重箱のすみをつつくようなやり方でねちっこく、執拗に批判してきたわけだね。
こういうことをやる人たちは会って直に話をしてみればそんなに悪い人たちじゃないんだけど、ネット上ではあたかも悪霊でも乗り移ったかのように悪意の塊となって襲いかかってくる。
ナイーブな僕としてはかなり落ち込んだものだよ(笑)
それが一つの原因となって会議室を運営していく熱意が失せてしまってカフェ・ネプチューンを廃止しちゃったんだよね。
いろんな分野の人が集まっていたので今ではもったいないことをしたなと思ってる。
で、それからというもの、僕はヌースの思考体系を「ヌース理論」と呼ぶのはやめにした。
ニュートンの理論でもアインシュタインの理論でもいいんだけど、だいたい理論と呼ばれるものには人名がセットになっていて「誰の?」という固有名がいつもこびりついてるよね。
「ヌース理論」という呼称だと結局は半田なにがしというヤツが発案した理論云々ということになってしまう。
つまり理論というのは見た目とは裏腹に自我の情念で領土化される運命を持っているということなんだ。
もし宇宙的ロゴスによる理法というものがあるのなら、それは人と人との垣根を取り払っていくべきものであるはずなのに、逆に自我を底支えするように働いているところがあるわけ。
これは何も科学理論に限ったことじゃないよ。
極論すれば、キリスト教とイスラム教の対立だってイエスとマホメットの神に対する見解の違いから来てるとも言えるだろ。
宗派の分裂に見るように思想におけるセクト闘争なんかも全部そう。
ある理論と別の理論がぶつかり合うと、「オマエの理論は間違っている」「いや、アンタの方が間違っている」なんていった論争が必ず起きてしまう。
まぁ、科学的論争については実験検証が決着をつけるからそれなりに白黒の決着は着くわけだけど宗教や哲学の理論となるとそうはいかない。
実際、歴史的に見ても宗教や哲学の世界ではいろいろな論争があったわけなんだけど、論争のレベルが高かろうが低かろうがこうした論争はほとんどが不毛だということが分かる。
無意味。
なぜかというと、大方の論者は相手の否定によって自分の正当性を主張したいだけだからね。
この「否定の先行性」というのが大変よろしくない。
理論という言葉の裏にはいつも暗黙のうちに「オマエは間違っている、だからオレが一番正しい」という傲慢さが入り混じっているわけだ。
言明というのは結局のところ、誰かが行うわけだから自我の情念が混り込むのは当たり前の話。
それなら、必要以上に他者を刺激する「理論」という言い方は止めにして一つの「思潮」という形で進めていった方がいい。
領土化の境界を消すわけ。
そう判断して、僕は自分の行っている作業を「ヌース理論」と呼ぶのをやめて「ヌーソロジー」と呼ぶことにした。
確か2008年頃だったと思うよ。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
4月 22 2021
「食べること」について
今回はOCOTとの交信記録を間に挟んで、あまり難しくならないよう、ゆる~い記事で進めてみたいと思う。
と言っても、OCOT情報自体が異質なので、それを地球語で説明しようとなると、どうしても小難しくなる部分もあるのでご勘弁を。
例えば、「イルカとは何か?」という質問を生物学者に投げれば、「それは、哺乳綱鯨偶蹄目クジラ類ハクジラ亜目に属する種の中の一つのグループ」なんて答えが返ってくるのかもしれない。
でも、まぁ、これは単に分類してるだけ。
OCOTに同じ質問を投げ掛ければ、イルカのイデア(イルカという生き物して表現されている精神の様態)について答えてくるわけだけど、OCOT情報のイデア論はプラトンが言うようなゆるゆる、スカスカのイデア論じゃない。
イルカのイデアとは「理想的な唯一のイルカのことである」などと言っても、そんなもの存在するわけがないし、それによってイルカを生成できるわけでもない。
OCOT情報では、イルカのイデアは生物としてのイルカを存在させている、その本質的な精神の様態のことを指すものになるので、結果、そこにはイルカとは似ても似つかない代物が現れる(笑)。
なんでイルカを例に上げているかと言うと、かつて、OCOTとこんなやりとりがあったから。
イルカとは何ですか?
有機体ノウスにおける原核心(ゲンカクシン)です。
はっ? 何じゃ、そりゃってことで、この言葉の意味については今もって全く分からない(笑)。
OCOTたちの世界では、僕たち人間に身近な存在であればあるほど、より高次の存在になっているみたいで、その説明はますます抽象度を上げていく。
だから、逆に、素粒子のような人間にとって抽象度が高いものほど、具体的な説明がしやすくなる。
ヌーソロジーではそういう理由もあって、具体的な事物に言及することを避けている、というか、まだできない(笑)。
そんなこんなで、今回は次のような交信記録の一節を用意した。
●交信記録19940205
コ 人間において食べるという行為は(あなたがたの)意識において何を意味しているのですか。
オ 形作る次元を内面に生み出すということ。表相から内面に働きかけるということです。定質の対化によって元止揚を生み出していくためには必要な行為です。
コ 元止揚とは何ですか。
オ 反映としての覚醒作用を意味します。中和の交差の上次元に働かされるもの。変換作用が作り出されるときに働きに変えられるもの。人間の意識の方向性を反映から次元に変えるもの。
コ 生態系における食物連鎖とは何ですか。
オ 位置の交差の次元と反映が生まれるまでは必要な次元です。
コ 変換人の次元に入るとものを食べなくてもよくなるのですか。
オ 位置を形作る必要がないので食べるという行為はなくなります。人間の意識が上次元を関与するようになればそのような状態になるでしょう。
先日、Twitterの方でも少し呟いたけど、人間が物を食べるという行為は単に肉体の機能を保持するためのエネルギーを補給するということを意味しない。
最近は現代栄養学の発達で、あれ食え、これ食え、一日最低何カロリーは必要だの、小うるさい人たちが増えているけど、OCOT情報によれば、人が食するという行為の本質は何ものかの意識の等化の表現であって、単に不足した栄養分やエネルギー源を補給することではない。
現代の食に関する一般常識はこの部分で、「食べること」の意義を正確には捉えていないと言っていいのかもしれない。
●食べることはコミュニケーションである
当たり前のことだが、食物はすべて生き物でもある。
生き物として構成された物質も精神側から見るなら、それぞれにそれなりの次元を持っている。
そこには生き物を構成する精神たちが互いに循環する場が存在していて、互いの精神を等化し、より大きな精神を形作っている。
その様子を私たちは地球上の生態系の食物連鎖として見ているのだとイメージするといい。
人間にとって食べるという行為は同時に他の生き物を殺すことを意味するので、一見残酷な行為のように写るかもしれない。
だけど、それは「強いから食べる、弱いから食べられる」などといった弱肉強食の掟を意味しているわけじゃ決してない。
そこには、動植物たちに宿る精霊たち同士のコミュニケーションが存在しているのだ。
こと、人間に関して言うなら、『中国人は4本足のものはテーブル以外何でも食べる』という言葉に象徴されるように、人間は食物連鎖の頂点に立ち、恐ろしいほどの雑食性で、多種多様な生物種を毎日のように体内に取り入れている。
こんな節操のない種は、当然人間以外には存在しないだろう。
だけど、今までの話でこの理由も大方の察しがつくんじゃなかろうか。
それは、人間を生成させている精神があらゆる種の精神を等化しているからだ。
友人の天海ヒロ氏が「種我同型論」と言うユニークな生物論を展開しているけど、まさに生態系全体が人間の自我意識を成り立たせている、意識流動の影のようなものなのだ。
●肉食はほんとによくないことなのか
レクチャーなどで、こういう話をすると必ず出る質問がコレ。
「肉食はよくないのではないですか」(笑)。
例えば、『日月神示』では「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生れると申してあろう、神民の食物は五穀野菜の類であるぞ」との一節があり、霊的な意味から肉食を固く禁じている。
しかし、OCOT情報は次のような言い方で、決して肉食を否定しない。
「食べ物は植物にしても動物にしても、人間の方向性を形作るための大事な核質にあたります。共性されることも共性されないことも人間が選んでいるということです。」
「共性」とは進化をもった方向の意識のことをいう。
肉食は動物の生成次元との等化を意味し、人間の意識を人間の内面方向に働かせる。
一方、菜食の方は、植物の生成次元との等化を意味し、こちらは人間の意識を人間の外面方向に働かせる。
基本、人間の意識進化の方向は人間の外面の方向にあるので、確かに菜食の方が好ましいとも言えるが、OCOT情報はそれは人間の選択であって、高次が誘導することではないと言う。
人間の内面の意識の負荷が充分にかからなければ、その反映力も十分な力を持つことができず、進化もまた起こらないからだ。
シュタイナー的にいうなら、アストラル体が強くなるか、エーテル体が強くなるか、そのようなものだ。
●やがて人間は「不食」になる
その意味で言うなら、菜食主義者たちは2013年以前の世界までは、不遇の時代だったとも言える。
人間社会は、人間の内面の意識バリバリで過ごす方が過ごしやすいし、社会的、経済的成功も人間の内面の意識が強くないとままならない。
しかし、2013年以降は大元の精神自体が反転を開始しているので、菜食派が徐々に主流となっていくのは、まず間違いないだろう。
そして、最終的にはOCOT情報にもあるように、人間は不食になるのだろう。
それは、植物が行っている光合成を、人間自身が意識の力で行えるようになるからだとOCOT情報は言う。
言うなれば、いい意味での”植物人間”、フォトシンセサイザーになるわけだ。
しかし、そこまで行くためには、ヌーソロジーで言うなら、次元観察子Ψ1~12までのカタチがすべて顕在化を起こさないといけない。それは、相当先のことだ。
そのとき、人間は、いつも言ってる「絶対不動の私」が普通の感覚になっているのではないかと思う。
物質空間の密度よりエーテル空間の密度の方が断然高くなっているからだ。
植物のクロロフィルの核となっているマグネシウム元素(Ψ12)は、そのような意識を獲得した意識存在における精神核に相当している。
そこは、ある意味、太陽の内部と言ってもいいような場所でもある。
●神の食事
さて、食物が精神の塊だということが少しでもイメージできてくれば、僕らの味覚に対する感覚も大きく変わってくるのかもしれない。
sapere(サピエール)という「味わう」という意味のラテン語がある。
この言葉はもともと「sapiens」(知恵)の語源でもある。
動物たちの味覚がどういうものなのかは全く分からないが、おそらく、食を「味わう」のは人類だけだろう。
それは、おそらく、神が人間の思考や感情を味わうことの反映のようなものだ。
グルメ狂いもいいが、むしろ今の僕らに必要なのは、いろいろな感情、思考を経験して、そこに立ち上がる意味の味を味わいつくすことだ。
それは、君自身に宿る神が食事をしているようなものなのだから。
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: OCOT情報, 日月神示