7月 18 2006
内面振動と外面振動
アンダラセンさんからヌース会議室の方にe^iθ回転についての書き込みがあった。この際だから、e^iθ回転に関する目下のところのヌース解釈を取りまとめて書いておこうと思う。
e^iθ回転とは有名なオイラーの公式e^iθ=cos(θ)+I sin(θ)が表す円軌道のことだ。これは、複素平面上では、原点Oを中心とする半径1の円として表される。
さて、このe^iθ回転だが、ヌースの解釈では、これは人間の意識における内面位置と外面位置の相互補完的な関係を表している。虚軸方向の振動(sin振動/上図ブルー)が外面位置ψ3領域の振動で、実軸方向の振動(cos振動/上図レッド)が内面位置ψ4領域の振動である。量子論ではこれらが運動量pの確率振幅と位置r(x,y,z)の確率振幅として解釈される(ヌースでは運動量次元=ψ3、位置次元=ψ4と解釈している)。
内面振動とは何かというと、それは、自他においては、空間の3次元方向への膨張と収縮のイメージとして現れる。意識には空間の延長を想像する能力が備わっている。「直径30cmのバスケットボールを想像して下さい」と言われれば、意識は即座にそのイメージを作り出すことができる。それが直径約12742kmの地球という球体の場合であれ同じだろう。意識はそれを思い描くことができる。意識は空間の広がりや縮まりを、スケールに縛られることなく、自由に飛び回って想像する力を持っているわけである。そこで振動している力がここで内面振動と言っているものと考えていい。
一方、外面振動とは何かというと、それは、そうした内面振動をノエマ(意識対象)として想像しているノエシス(意識主体)側の働きである。言い換えれば、つねに延長としての球体を外部から観察できる意識の位置と言っていいだろう。ここにも実は振動が存在している。極端な話、宇宙の半径が137億光年と言われれば、僕らはとてつもなく巨大な空間の玉を想像する。この想像はある意味、内面振動における膨張の極限のようなものである。しかし、そこに直径なにがしという球体の象り(かたどり)が想像されている限り、意識はそれを外部側(外面)から捉えているということにもなる。もちろん、この場合の位置は、外部側の極限でもあるわけだが。こうした外面の位置も内面振動とともに表裏一体で振動していると考えるわけだ。
このように、意識を空間そのものに内属する性質と考えれば、内面が縮めば縮むほど外面は膨張していくし、一方、外面が縮めば縮むほど内面は膨張していく。この反復の様子は容易に君の意識にも「想像」できることだろう。そして、そうした想像力の在り方は、実際には、君と僕の間では互いに反転している。というのも、君を取り囲む球体を僕は外部から認識できるからだ。もちろん、その逆もアリである。
僕らの空間認識では、こうした自他間の「内・外」の相互反転関係が見えておらず、内=内*、外=外*というように、それらを互いに同一視してしまっている。この同一視が、結果として、数学上では複素共役関係の積として表されることになる。量子論的に言えば、客観空間で一つの特定の位置r(x,y,z)や運動量pの確率を決定するには、このψψ*という掛け算がどうしても必要になるということだ。
さて、こうした解釈を総合して、このe^iθという円環上の座標点の運動が何をなぞっているのかについて考えると、答えはすぐに出てくる。それは、意識における空間上の球形の「象り」である。この象りの振動は、別の言い方をすれば、自他間での意識の相補的な呼吸であるとも言える。光と闇を相互に交換し合いながら、それらのバランスを常に量ろうとする精神の確固たる中立性、このe^iθ回転にはそうした意思が現れているのである。e^iθ回転の場とは物理的に言えば電磁場でもあるのだが、ヌース的には、電磁力における力のやり取りとは、自他間における空間認識の交換場所としてイメージされてくることになる。
2月 8 2008
人間は星だ!!
ヌース理論もそろそろ星について具体的に語り出すときが来ているようだ。ヌース理論は非常識な主張のオンパレードなので、科学的な常識に偏りがちな人たちからはまず「トンデモ」の烙印を押される。ミクロ世界を構成している量子については理系の人以外ほとんどの人が馴染み薄なので、ヌースが量子構造は無意識の構造だ!!と吠えても、ふ~ん、そういうこともあるかもね。という反応で済むのだが、マクロ世界となるとなかなかそうはいかない。「宇宙には太陽系しか存在しない!!」「恒星とは人間の個体の魂が放つ光だ」と言うと、精神世界系の人たちの中にさえも、とたんに「え~っ??」と訝しがる人や、「この人危ないわ、あわわ」と言って引いてしまう人がほとんど。。。まあ、現代人の常識とは全く合致しないことを言ってるのだから仕方ないか(^^)。
宇宙には太陽系しか存在しない――現代の科学的宇宙観から見れば、一笑に付されて無視される物言いだということは僕自身も十分に分かっている。じゃあなんでこんな暴言を吐いているかというと、一つは確信犯的にトリックスターになってやるわいな、という自己決定もあるが、本当のところは、空間はそんなに単純なもんじゃないよ、ということが言いたいからなのだ。実際、ミクロの極微空間においては僕らの通常の空間感覚では捉えられないような空間領域に入ることを今の科学は知っている。量子論がすでにそれを発見しているからだ。ただマクロの巨視的空間においてはその差異を主張する人は今のところほとんど誰もいない。
ヌースがマクロ宇宙に対して突拍子もないことを主張しているのは、観測者自身の観察空間をも含めて空間の構造を考察して行くと、今の科学的認識のように単に平板的に3次元の延長概念を宇宙に拡大していくことは大きな間違いだということが分かってくるからだ。ニーチェやフッサールではないが、僕らは「大地の意義」や「不動の大地」として人間存在を考え直さなくてはならない。人間が地球という天体上の表面上にへばりついて生息している意味、それも世界を認識するという意識の能力を持って球面状にへばりついているという意味、そしてその大地自身が宇宙空間に対して自転しているという意味、さらにはまたそれが太陽の周囲をも公転しているという意味etc………。
天体はむやみやたらに単なる物理的な惰性力で回転しているわけではない。ヌース的に言えば、回転とは空間に内蔵された精神構造の幾何学的顕現である。早い話、回転に対する想像力がなければ3次元空間だって僕らは認識することはできないのだ。
『人神』にも書いたが、現代の宗教や哲学は科学にちょっと媚びすぎちゃいないだろうか。宗教や哲学の主張を突き詰めて行けば、現代科学の物質中心の宇宙観や人間観を受け入れるのはちょっと無理な話だ。今の産業や経済に貢献する技術的な実学という意味であれば、科学は全く文句のつけようのないほど体系化され精緻化された素晴らしい学問だが、こと宇宙の誕生や進化、さらには人間の起源という存在に関する全包括的な問題に関しては、科学的知見だけで結論を下してしまうのはそれこそ「トンデモ」だ。しかし、悲しいかな哲学者や宗教家と科学者が真っ向から建設的な議論をし合う場は、今の学の世界にはほとんどなくなってしまった。それが学というものの本来の在り方であるはずなのに。。。
科学が少年性から脱することが必要だ。現在の科学は残念ながら女を孕ませる能力に欠けている。つまり、概念/conceptionがないのだ。平板的な3次元空間の中の同一性だけで事象を数量的に分析したところで、宇宙の本質は決して分からない。お姫様をお城の地下牢に閉じ込めておく悪者役を科学はそろそろ卒業してもいい頃ではないだろうか。白馬の王子となってお姫様の救出に向かう力を実は科学は潜在的に持っている。早く、成熟した美男子となって、あの月光美人と太陽の中でベッドインしようぜ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: ニーチェ, 人類が神を見る日, 量子論