7月 3 2005
スピニングフィールド
町工場の方で製作を進めていたNC generatorの初号機が最終テストを経て、ついに稼働を開始した。と言って別段何かが起こるということは全くないのだが(笑)。設計段階を含めて作業開始から約6ケ月、別に大きなトラブルもなく、予想よりも早い稼働となった。部品加工から組み立てに携わってくれた○○社の技師の皆さんに改めて感謝の意を表したい。
さて、この機械、実際に専用のNCコイルを装着して動かしてみると、思っていたよりかなりすごいエネルギーを感じる。そばにいると体中の細胞がジンジンとしてくるのが分かるのだ。交流の三相モーターを使った垂直回転部と水平回転部のMAX回転速度はせいぜい300rpm程度、直流コイル部電圧12V、電流は2Aほどの低域に設定している。扇風機の「弱」よりもやや低い回転速度だが、それでも世にある波動発生装置としてはピカ一のものだろう。波動発生装置というと、いかにも陳腐な響きに聞こえるかもしれない。「波動」という言葉は精神世界やニューエイジではおなじみだが、実際にその実体が何を指すのか知っている人はほとんどいない。「波動がいい」とか、「波動が高い」とかいった言い回しは、それこそ科学的にはナンセンスの一言につきるが、実際には計測にかからない何らかの力の場というものはある。それこそが意識だ。
ヌース理論の文脈から言えば、波動とは素粒子の実体である。素粒子の実体とは意識構造を定めているイデアである。素粒子は観測にはかかるだろろうが、その実体は観測にかかることはない。なぜなら、観測とはヌースの言葉でいうところの表相(一つのモノの一つの見え方)の次元でしかないからである。実体は表相のみならず、表面(一つのモノのあらゆる見え方)や、面(すべてのもののあらゆる見え方)や、さらに上位の次元(他者の意識する空間等)を持つ空間構造体(高次元多様体)として活動している。つまり、はるか高次のカタチを持っているのだ。そうした高次元空間は表相上においては回転の多重性として射影されてくる。だから、実体に直接触れるためには、そうした回転の多重構造側そのものへとダイレクトに意識を向けなければ無理だ。
回転するのものが回転し、そして、またその回転するものが回転する。そうしたスピニング・フィールドがある。意識はそのフィールドを巡って活動している。自らが回転体となること。そして、その回転を無限に連鎖させて行くこと。ミクロの世界もマクロの世界もその大いなる回転の映し絵なのだ。ヌースとはそうした回転の連なりの中に息づく旋回的知性のことである。
9月 15 2005
眼から芽へ
現在、ヌース理論のテキストブックの下案作りをヌース会議室の方で進めているが、今日は、1日仕事の手が空いたので、そちらの作業にだいぶ時間を割くことが出来た。
今日考えていたのは「表相」というヌース独自の概念についてだ。独自でもないか。。。フッサールの現象学なんかでは「射映」と呼ばれているが、要は、視野上に顕われているモノの見え姿のことである。ヌース理論では、この「表相」を精神構造における最もミクロな部品と考える。僕らの周囲を見渡してみると、それこそ、多種多様な表相で覆われているのが分かる。様々な形と色とデザインでかたどられた対象の数々。鉱物、植物、動物、人工物、星空、そして、君の顔。僕らの肉眼に写し出されている表相の世界は実に多彩だ。
表相とは別名、見ること、に他ならない。見ること——精神はこの行為によってその活動のスイッチを入れる。当然、見ることのさらなる奥には、触ることや嗅ぐこと、味わうことや聞き入ることなどの諸感覚の働きがあるだろう。しかし、ヌース理論は敢えて、見ることにこだわりたい。なぜなら、見ることは知性的なものの象徴だからだ。ヌースが旋回的知性という名の通り、知性の範疇であるならば、見ることはこの旋回性に無関係のはずがない。人によっては、ヌースがあまりに視覚にこだわるので、おもむろに嫌悪感を示す人々がいる。
「眼は理性の象徴である。それはアポロン的な知性しか呼び起こさない。どうして、眼にデュオニソスの力を再現する力があるというのか。眼によって世界の裏を見透かすことはできない。」
果たして、そうだろうか。僕は、人間はまだ眼の潜在的な力を開拓しきれていないのではないかと感じている。もちろん、嗅ぐことや聴くこと、触ることや味わうことなどによって呼び起こされる共感覚が、無意識を呼び起こす上でとても重要なことぐらい百も承知している。しかし、神の性器は間違いなく眼だ。そういう確信がある。だから、神の生殖に関して思考を巡らすためには、いや、神の生殖をこの世界にもたらすためには、この「眼」についてもっと深く思考する必要があるのだ。
現在、眼は極めて男性っぽい響きを持っている。視姦。覗き見。監視。etc。それは、人間があまりに見ることにおいて、見るものを意識しすぎているからだろう。しかし、それも無理はない。見るものがどこからやって来たか知らないのだから。受け手はただ、与えられたものの美しさや不思議さに魅せられるしかない。しかし、そろそろ、受け手自身である自分に眼差しを向けてはどうだ。見ることにおいて、見られることの方に意識を向ければ、眼はそれこそ、女(め)となり、また、芽(め)となることができはしないだろうか。
眼がモノを見ているとき、モノもまた眼を見ている。眼がモノから放たれる光を見ているとき、モノもまた眼から放たれる光を見ている。僕らの眼はまだ十分に開いてはいない。眼が完全に開いたときには、もはや、モノを見る必要はなくなるだろう。僕らの眼とモノの眼が出会うとき、二つの眼は光そのものになる。光になれば、世界から見る主体も見られる表象も消え去る。そこに出現するのはタブラ・ラサとしての世界だ。
さて、何を描こう。。。
ヌースの芸術がここから始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: 表相