6月 30 2017
奥行きの先には無限の捻りの運動がある
物質は時空に包まれているように見えるが、わたしたち人間の観察を通じて、時空は物質に包まれている。包みつつ包まれ、包まれつつ包むという垂直的次元におけるモナドロジックな反復運動―時空という場所から内部空間へと分け入り、内部空間からまた時空への表出へ。この世界がもう開き出している。
カバラ、カタカムナ、シュタイナー、ドゥルーズ、シオリズムetc。個人の嗜好性はさほど問題ではない。それぞれの人がそれぞれの個性の中にモナドの音楽を奏でていけばいい。少なくとも、このめくるめく螺旋音楽の中には否定される音は何一つない。
というところで、先日の向きづけの違う二つの複素平面の話の続き。この二つは同一平面上では重ね合わすことができないのだけど、捻りを入れて裏返せば虚軸と実軸を互いに入れ替えることができる。他者と共有された奥行きと幅がそこに登場するわけだ。そこに出現してくるのがいわゆる時間と空間と思うといいよ。
内に沈み込んでいた複素空間は、そこで外へと浮き上がってくる。僕らが自分の内に感じ取っている「横からの視線」というのが、この捻りの裏返しに相当している。
「奥行きにも距離(幅)がある」という感覚は、この横からの視線によって生じているわけだね。
時間と空間の発生はあくまでも結果。原因は複素空間としての持続世界にある。なのに、僕らは結果から思考を組み立てている。時間と空間の世界から世界を思考する。それがすべてを狂わせている。結果から見ると、他者の奥行きも自分の奥行きも同一平面上にあるかのように見えてしまうでしょ。なんせ、両方とも幅になっているわけだから。。こうした認識には両者の間にある「ねじれ」が全く感知できていない。
この捻れが感知できてないと、自分が横に回れば他者が見ている世界が見えるなんて思ってしまうわけだ。下の図をよく見てもらえば分かると思うけど、単に左側に自分の虚軸を回してみても、実軸の矢印は自分の方に向いてしまう。物の手前にいる自分………これが肉体的自我を作っていると思えばいい。3次元認識が肉体的自我を固定してるんだね。
実は、このねじれ関係は永遠に続いている。たとえば、ここで紹介した時間と空間の関係も自他では逆に構成されるというように。だから、精神はそれをまた捻って今度は「時空」という形で等化しようとするんだけど、そこでまた高次の捻れが生まれる云々、というようにね。
そのプロセスが延々と積み重ねられてきたものが物質だと考えるといいよ。つまり、精神には一つとなろうとするプロセスだけがあるのであって、決して一つ(全体)になることはないってこと。ここ大事だから、覚えておいてね。
一方、人間の方はこの根本的な捻れが常に見えなくさせられるところに停滞している、常に初期化させられている存在なんだよね。それが創造されたものを「受け取る」ということの意味。
等化の流れのヌースと中和の流れのノスというのはそういう関係にあるわけ。
でも、絶えることのないこの精神の歩みはこのノスをヌースに捻ろうとして新しいヌースへと歩を進めてくる。これが永遠回帰というやつだと思うといいよ。ドゥルーズが言うように同じものは回帰しない。それは無限が無限を乗り越えていく運動のようなものなんだ。
ヌーソロジーの根底にある思考線は、およそこんな感じだね。
7月 5 2017
反時代的なものへの狼煙(signal fire)を上げること
「時間と空間は結果にすぎない」「結果から世界を認識しても原因にはたどり着けない」。ツイッターではそういう話をずっとしています。これをもう一歩突っ込んで、―時空は結果にすぎない。時空をベースに世界を思考しても世界には触れることはできない―と言い換えてもいいでしょう。
問題は、なぜ人間は時空をベースに世界を認識、思考することを余儀なくされているのか、そこにあります。これは裏を返せば、本来、持続(時間の流れのない世界)に生きている人間がなぜ、時空という場所に投げ出されてしまったのか、そこに問いを立てろ、ということです。
持続から時空が成り立つ条件、それを明らかにすれば、わたしたちは時空の何たるかを知り、時空を超えた世界に生きることができるようになってきます。
時空というものは私たちを「一つ」という観念の中に放り込んでいます。いわゆる、同一性の温床です。そこに肉体というカタチで存在させられ、個人個人はそれぞれの主観で生きていても、結局のところ、時空/主観意識という意識の反復の中で「一つ」の中に閉じ込められています。
ざっくりというなら、この反復のループの中に生じているものが自我意識の同一性です。ニーチェからドゥルーズに至る現代思想の系譜は、常にこの自我の同一性を問題にしてきました。この檻、この反復の輪っかからいかにすれば脱出できるのか―それが哲学者たちにとって解決されるべき最重要課題であり続けてきたわけです。
問題はこの「一つ」です。時空(外の宇宙というイメージでいいです)に対する眼差しの中でわたしたちは一つにさせられている。科学者たちの「137億年前にビックバンがあった」などというセリフも、この一つにさせられた眼差しのもとに発せられているんですね。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。時空が一つにさせられている眼差しのもとにあるのなら、わたしたち一人一人の個別の眼差しが統合されたところに、実は時空というものが生まれてきたのだ。そうに違いない―と。
これが、時空は結果だということの意味です。ならば、時空を生み出したものは次のような履歴を持っているはずです。つまり―。
わたしとあなたとの間で「見る/見られる」という関係の中を行き交っている視線が、まずはわたしの中で統合され、次にあなたの中でも統合され、そして、それら両者もまた統合される―。
もちろん、ここで「見る」と言っているのはわたしたち自身それぞれの持続を含みもった眼差し、つまり「奥行き」のことを言っています。
このことは例のラカンによる黄金比の定義を彷彿とさせます。つまり、「わたしから見たあなたの関係が、あなたとわたしから見たわたしの関係に等しくなるとき、そこに黄金比が生まれる」―という。
そして、ラカンはこの黄金比のことを「愛」と呼びました。
もうわかりますよね。つまり、わたしたちが時空を「一つ」と感じてしまうのは、時空がひっくり返った「愛」だからです。
そして、このひっくり返った愛とは、愛がひっくり返っているわけですから、愛が全く存在しない世界、もっと端的に言うなら、虚無と言っていいものです。
物理学を知ってる方は、一度、時空(ローレンツ変換対称性)が複素空間の次元構成(素粒子構造)の中で、どのようなプロセスを経て出来上がってくるのか、その経緯を数学的に追いかけてみるといいでしょう。そのとき、どうか虚軸と実軸を見るものと見られるものの関係に置き換えて解釈してみてください。
そこには、さきほどいった、ラカンの愛の定義の運動が起こっているはずです。
その風景が見えてくると、素粒子は本来、存在しなくてもいいもの、という結論が生まれてきます。素粒子とは時空に首を突っ込んでしまっている人間の意識を、裏で時空を作り出したものの位置にまで引っ張り上げている力の流れのことなんですね。この裏の働きが潜在的なもの、つまり無意識です。
僕が素粒子のことを「潜在的変換性」と呼んでいるのも、そういう理由からです。こういうことを語っている思想家は、僕が知っている限り、世界でただ一人、実はもののけのしおりちゃんだけなんですよね(^^)。
ヌーソロジーから見ると、デジタルテクノロジーの発展を前提とした新反動主義や、同じく、科学的世界観に重きを置いた思弁的実在論といったような今の思想の趨勢は、人間を無の奥底へと落下させていくような思考態度に見えます。ヌース(精神実体の営みそのもの)の抹殺に取り掛かっている。
でも、その方向に対する力強い対抗軸がまだどこにも現われていないように思えます。ドゥルーズの言葉でいうなら、時代的に、ではなく、反時代的に、思考していくこと。そういう思考を何とか立ち上げていく必要があるんです。
精神の炎をこのまま消し去ってはいけません。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: もののケのしおり, ドゥルーズ, ニーチェ, ラカン, 奥行き, 素粒子