6月 10 2008
時間と別れるための50の方法(12)
●再度、人間の外面と内面
さて、ここで、人間の内面と外面という空間概念を分りやすくするめに、『人神/アドバンスエディション』でも示した図を引っ張ってきてみましょう。下図1がそれです。
『アドバンス・エディション』では「人間の外面」を見える空間、「人間の内面」を見えない空間として紹介しました。この図を再度、ご覧になってみて下さい。人間が空間上の何か一つの対象を認知するとき、そこには「図」としてのモノの表面側と、「地」としての背景空間側が存在しているわけですが、この図ではそれらがともに人間の外面としてブルーの実線で描かれているのが分ります。しかし、互いの面の関係を見てみると、それらは凸面と凹面の関係になっています。こうした凹凸の反転関係から、モノの内部と外部の空間は、3次元的なものとして捉えたときには、同じ3次元空間ではなく互いに反転した関係として捉えられるべきだ、というのが『アドバンスト・エディション』で主張した内容です。
というのも、僕らの一般的な空間把握(人間型ゲシュタルト)はこうした反転概念を通してモノとその背景空間を捉えることができていないからです。どういうことかと言うと、前回もお話ししたように、僕らはモノの外部の空間にも尺度を与えて、モノの内部性として感覚化している「大きさ」という概念で空間を把握することがクセになっているので、対象の背景にある空間領域もまたモノの内部空間をそのまま単純に拡大させていった空間と同じ空間として見なすのが常識となっています。このような空間概念でモノの背景空間が捉えられてしまうと、モノの背景面として見えている面は概念としてはモノの内壁(実際に見えているモノの表面のウラ側)を構成している側の面と全く同じ面の延長として見なされることになるのが分るはずです。
はてはて、このような空間認識の在り方の一体どこがまずいの?と疑問に持たれる方もおいででしょうが、ここで、よぉ〜く、よぉ~く考えてみて下さい。しつこいようですが、「よぉ〜く」です。ヌース的に言えば、ここが変換人の意識(顕在化)と人間の意識(そのまま潜在化)の分岐点になります。OCOT風に言えば、ムー次元とアトランティス次元の分岐点なのです。どひゃー。えらいこっちゃ。
モノの背景面は果たしてほんとうにモノの内壁をそのまま拡大させていった面となっているでしょうか?この問いに対する答えは実際に見えている空間を2次元の射影空間として捉えるとそれなりに分ってきます。
再度、上図1を見てみましょう。この図では読者の空間イメージを喚起するためにモノ、観測者、そして、それらが配置されている空間の諸関係が真横から見た様子として図示されています。しかし、実際、観測者の位置に自分が立ち、そこからモノや背景空間を見ると、その様子は下図2に示したように、ただ、モノの表面部分(図)と背景空間(地)があるだけの状態となります。
ここでは、モノとその背景空間が織りなす空間はペッタンコに潰されていて、幾何学的には平面状の形状として表されているのが分ります。つまり、いつも言ってるように視線上にある奥行き方向がすべて一点同一視され、2次元の面的な空間になっているわけです。
ただ、2次元と言っても、ここでいう2次元は普通の2次元ユークリッド空間とは全く違う性質を持った2次元です。こうした空間は幾何学的には2次元射影空間と呼ばれています。つまり、知覚正面としての視野空間は3次元空間というよりも、2次元射影空間の性質を持っているということです。
2次元射影空間の幾何学的な定義については『アドバンスト・エディション』の脚注部分に書いているのでここでは割愛しますが、大事なことは、視野空間を2次元射影空間と見なした場合、視線上で知覚されているモノの表面上の一点とその背後にあると想像されている背景空間上の一点は同じものとして見なされる、ということです。つまり、最初に示した図1で言えば、点Aと点Bは同一視されているということを意味します。このことが3次元的にどういう意味合いを持っているか考えるためには、モノを中心として視線自体の回転を行なってみるといいでしょう。つまり、一つのモノを見ながら、その見つめている視線をモノを中心に回転させていってみるのです。
そうすると、回転とともに視線上に捉えられているモノの表面上の一点一点は、同じく、モノの背景面上の一点一点と一対一で対応関係を持っていきながら遷移していきます。とすると、視線の回転によってなぞられていくモノの表面を構成している球面(凸面側)と、モノの背景面としてなぞられていく球面(凹面側)とは、その光学中心(認識されているモノの中心点)で相互に反転している関係があるということになります。つまり、モノとして認識されている球体の内部と背景として認識されている外部の3次元性には互いに反転関係が隠されているということです。このような認識から、ヌース理論では、知覚正面に捉えられているモノの背景面はモノの表面が反転して現れた面であって、決してモノの内壁が拡大されて現れたものではないと考えるのです。
では、実際にモノの内壁が単純に拡大されていった面はどこに感覚化されているのでしょうか——それは簡単です。知覚正面側ではなく、知覚背面側です。目の前のモノがどんどん拡大されてくるイメージを作ると、ある時点でそのモノのイメージが観測者自身を包む込んだイメージに切り替わります。このときモノの内壁だったところは、自分の背中方向に感覚化されるようになります。つまり、後ろ、です。これは、このシリーズでもお話してきたように、モノの手前にいる自分や自分の顔をイメージしている鏡像空間です。つまり、目の前のモノが自分を包む込むイメージが生まれたときには、意識が人間の外面から内面に反転させられているのです。言うまでもなく、そうしたイメージで捉えられている空間は実際に見えている空間ではありません——つづく。
7月 24 2008
時間と別れるための50の方法(22)
●持続、記憶、イマージュ
次元観察子ψ3………対象の背景方向で同一視され、ペッタンコにされた奥行きという名の方向性。それはヌース的思考のもとでは3次元空間から垂直に立ち上がる4次元方向の軸を意味するものになります。その領域は見るもの(主体)も含む場所であるとポンティは結論づけたわけですが、これは一体どういう意味なのでしょうか。
たとえば目の前にモノがあるという状況について考えてみます。僕らは日常、単純にそこにコップがある、とか、灰皿があるとか、口にします。物質というものが客観的な外在世界に存在しており、そこに光が当たり、その光の反射が目に入ってきて、網膜がその像を写し取り、その信号が脳に送られ、脳内のどこかでその像が再構成される。それがモノが見えるということの一般的な説明です。人間型ゲシュタルトではそう考えることが習慣のようになっていて、学校でもそう教えるものですから、ほとんどの人がこの常識を疑いません。
しかし、見えるもの(客体)と見るもの(主体)の関係を単に空間的な配位の中で考えるのではなく、時間的配位の中で考えてみるとどうなるでしょう。これは今まで見てきた次元観察子ψ3~ψ4の構造を念頭に置いて、モノが目の前にある、とはどういうことかを考えることと同意です。別の言い方をすれば、相互に反転した4次元軸の介入を仮定して主体と客体の関係性を考えてみたらどうか、ということです。一方ですべての時間を包摂した無時間の場所があって、他方で、その無時間を秩序立て直して、時間があたかも未来からやってきては過去へと流れていくように見せかけている場所がある。ひょっとして、僕らが主体と客体という形で概念化している世界の有り様の二つの側面は、この4次元の相互反関係に由来しているのではないかと考えてみるのです。
僕自身、このψ3とψ4の構造が見え出したときに、主客関係を時間の問題(ヌース的には4次元の方向性の問題ということになります。つまり、人間の外面か内面かということ。)として捉え直そうとした哲学者がいなかったかいろいろと調べてみました。すると、いないどころか、哲学史に燦然と輝く天才思想家がそれに挑んでいたのです。アンリ・ベルクソンです。ベルクソンは主客問題を時間的側面から乗り越えようとした最初の哲学者だと言っていいと思います。
ベルクソンは時間には二通りの時間があると言います。一つは時計の針で計られるような物理的時間。もう一つは実際に生ある人間が感じ取っている本当の時間。心理学的時間と呼んでもいいのかな(ベルクソンはこちらの時間を「持続」と呼びます)。物理的時間は過ぎ行く時間の瞬間、瞬間を点のように描像し(実際、物理学では瞬間性を点時刻として扱います)、時間の流れを点の連続的集合性として線的に捉えます(時間軸tというのがその典型です)。ベルクソンはこうした物理的時間の在り方を「空間化した時間」と呼んで、本当の時間(持続)を隠蔽しているかさぶたのようなものとして批判します。
物理的な時間のもとで物質という存在について考えてみましょう。僕らは単純に3次元的かさばりを持った物質が外在世界に存在しているものとして考えますが、このとき、外在世界と呼んでいるものは時空ということになります。そこでは、刻一刻と時間が流れ、訪れる一瞬一瞬があっと言う間に過去へと収納されていっています。こうした時間の奔流の中で「物資が存在している」と言うのはちょっとナンセンスかもしれません。なぜなら、「存在している」という形容自体が幾ばくかの時間的経過を含んでいるものと考えられるからです。物質が時間と無関係にある、ということを証明するためには瞬間性における物質の存在を明らかにしなければならなくなるわけですが、瞬間としての現在を意識が把握するのは全く持って不可能です。今・現在という瞬間性を意識が対象化したときには、それはもうすでに過去のものになってしまっており、点時刻としての瞬間性、現在性は、ある意味、意識の盲点とも呼べるような把握不能な存在なのです。
そこでベルクソンは大胆に言い放ちます。「物質とは記憶である」と。いいですねぇ~。カッコいいです。僕らが「そこに灰皿がある」というとき、その物質は単に現在の灰皿の姿だけが立ち表れているのではなく、その背景に、1秒前の灰皿、1時間前の灰皿、1ケ月前の灰皿、一年前の灰皿というように、その灰皿の履歴が彗星の尾っぽのようにたなびいている、というわけです。このたなびきがベルクソンが持続と呼ぶものと考えていいと思います。その意味では持続とは記憶と言い換えていいのかもしれません。
言われて見ればその通りです。僕が目の前の灰皿を認識するとき、単に、モノとしての灰皿だけがあるわけじゃありません。そこにはその灰皿に対する様々な僕の思いが付着しています。単純なところで言えば、〜昨日もここに灰皿があった。そして、相も変わらず今も同じところに灰皿がある〜だから、「ここに灰皿がある」という継続を含んだ言い方になるわけですし、一ヶ月前はこの灰皿を見ながら「タバコ止めたほうがいいかなぁ」なんて殊勝な心持ちにもなった。でも、食後の一服が引き起こすあの快楽の誘惑に耐えきれず、結局、「タバコ最高!!」といいながら、その灰皿に再度、灰をポンポンと落とした自分がいた。。「僕の前に物質として灰皿が存在する」ということは、こうした見るもの側の物語の継続と同じ意味を持っているわけです。そして、その物語をたなびかせながら、今もまた、ここに、こうして灰皿がある。。
このような思考を含んだ視線で捉えられた灰皿は、単に僕らが客観的実在世界にポンと放置された物質としての灰皿とは全くニュアンスが違うものであることが分ります。同時に、それは意識が単に表象として再構成しているような灰皿でもありません。それは生きている事物と呼んでもいいような何かであり、単なる物質でも単なる観念でもないような何物かです。ベルクソンはこうした何物かのことを事物や表象とは区別して「イマージュ」と呼びます。きれいですねぇ~。イマージュ。ベルクソンが「物質とは記憶である」と言うとき、物質はこうしたイマージュとして見なされているのです。そして、このイマージュはベルクソンの中ではもはや客体としての対象ではなく、見るもの、つまり、主体の活動を含んだ精神の働きとして解釈されていくことになります。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 3 • Tags: イマージュ, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 内面と外面