4月 28 2006
新著のためのメモ
新著執筆のメモ代わりに続けて記しておく。
世界が現象として目前に開示されるだけでは主客認識も自他認識もおそらく発生しない。というのも、主客認識や自他認識の発生には前後方向に延長の概念が派生する必要があるからだ。奥行きに距離を見て、その距離が主-客や自-他を分断関係として用意する。
前後方向における延長が左右方向からの認識であることは直感的に感じ取ることはできる。しかし、僕らはなぜ左右方向から前後方向の延長性をイメージすることができるのだろうか。それは、おそらく、意識が空間自体として活動しているからだ。
モノと自己、さらには、モノを挟んで向かい合う自他という位置関係を想像するとき、意識はすでにモノの前後軸方向から左右軸方向側へとその位置を移動させている。つまり、前後方向は左右方向から観察されない限り認識には上り得ないということだ。実際の自分の視点ではないところからの対象に対する観察力。こうした力をサルトルは「想像力」と呼んでいたが、知性の活動においてこの想像力は不可欠なものである。
ヌースでは意識の位置がこうした左右方向に出ることを「表相の等化」と呼ぶ。これは自他が経験している対象の見え(表相)であるψ1-ψ*1の関係が等化されることを意味する。意識は当然のことながら、ここからψ3-ψ*3、ψ5-ψ*5という外面同士の等化を進めていくことになるのだが、1-1*、3-3*、5-5*、7-7*という奇数系同士の観察子が等化されていく次元が思形の全体性=ψ9が作用している場所となる。これは自他の外面同士の統合地帯であるから、客観性の起源となっている精神作用として解釈される。つまり、ヌース的に見ると、客観性の起源=もの自体とは、無意識の主体(人間の外面)が統合された空間なのである。
ヌースでいう「等化」の作用とは、意識の次元上昇のことであり、幾何学的には直交性=観察のノエシスが増設されていくことを意味する。「表相の等化」によって、相対する人間の外面領域として対峙関係にあった自他の二つのエーテル体は統合され、別の作用へと質的変化を被る。この変化は幾何学的には極めてドラスティックな変化である。エーテル体は前後方向の中に集約された4次元空間上のノエシスとして活動しているが、この質的変化はノエシスを5次元方向へと直交変換させる。そして、おそらく、この5次元が実は僕らが左右と呼んでいる方向の本質となっている。
このブログでも何度も執拗に書いてきたように、前後方向の空間においては、自他に知覚される空間は鏡映空間の役割を持ち、互いに反転関係にある。この鏡映性は射影空間の性質を持っているので、互いの鏡映反転の関係は、内部=外部、外部=内部という双対のメビウス的捻れによって連続的に結びつけられている。人間における無数の個体性を決定する個々のパースペクティブは、この四次元回転が作り出す捻れに沿って配位されている可能性が高い。
しかし、ここに左右方向からの観察意識が入射すると、その連続的な結びつきを切断する作用が生じてくる。別に難しい話ではない。前後空間の風景は、視野とその中に映し出された君のまなざしから成っているが、左右方向から見た風景は、君と僕との二つの横顔が対等に並んでいるような情景へと変わってしまうということだ。これは極めて大きな意識のジャンプだ。このジャンプがさきほど言ったエーテル体の変質の意味するところなわけだが、このジャンプによって、前後空間に内包されていた自他間の視野空間と瞳孔の相互反転のキアスムの関係は忘却され、二つの視野空間と二つの瞳孔という形での極性分離が起こる。つまり、(−,+,−*,+*)として構成されていたものが、(−,−*、+,+*)へと偏極してしまうのだ。これは、物理学的に言えば、三つの力が作用する微視的な内部空間の世界から、重力+時空という巨視的な世界へと移行することとホモロジカルな関係にあるように思われる。
ヌース的には、この素粒子空間→重力+時空への存在の偏極がシリウスからオリオンとプレアデスへの二極化の本質となっている。オリオン-プレアデス関係においては、意識の相殺の流れを作り出していた双対的な4値関係が見えなくなり、世界は一気に2値化する。というのも、(−,−*、+,+*)は(−,−*)を一つの−に統合し、(+,+*)もまたその反映として一つの+へと同一化させられてしまうからだ。それらの関係を天上と地上と呼んでもいいし、父と子と呼んでもいいし、ちょっと気取って象徴界と想像界と呼んでもいい。ユダヤの神と契約の民の関係がここに生まれ。世界があたかも「光あれ!」という神の号令のもとに、人間に与えられたかのように見えるのだ。
ユダヤの神は過去の神であり、新しい神の到来を待機する真のユダヤ者にとっては偽神である。その意味では、光あれ!!というよりも、重さあれ!!によって世界は生じたのである。現在、ユダヤ神秘主義では、(−,−*)を創造界(ベリアー)と呼び、(+,+*)は活動界(アッシャー)と呼んでいる。(+.−,+*,−*)が意味するものは、もちろん、失われた楽園(形成界=イェッツェラー)である。
僕ら人間(自他)は統合の+という場に生み落とされた新たな−と−*である。楽園の扉を開くためには、統合の+、つまり、この重力に支配された時空を二つに分割する必要があるのだ。そのためには、この−と−*という双子の光に対し自覚的にならなければならない。この覚知がヌースが宇宙卵の分割と呼ぶものである。見るものが無数にいるならば、見られる世界も無数にある。まずは60億個の地球を作り出そう。そうしなければ、本当の地球は見えてこない。
5月 8 2006
エンジェルズ・イン・アメリカ
久々にいいドラマを見た。「エンジェルズ・イン・アメリカ」。あの「卒業」のマイク・ニコルズが手がけた6時間もののTVドラマだ。TVドラマと言っても、超大作と銘打たれたどこかの国の映画よりもはるかに映画らしい中味の濃い脚本、演出、演技、etc。おまけにTV企画でどうしてこんなキャストが可能になったのかというぐらいの豪華な俳優陣に彩られた作品だった。アル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソン、ジェフリー・ライト、あと、「オペラ座の怪人」に出演していた……ん〜、名前を忘れた。この作品の原作はトニー賞やビューリッツァー賞を受賞したトニー・クシュナーという人の戯曲らしいのだが、とにかく脚本と役者たちの演技が素晴らしかった。
ストーリーは80年代半ばニューヨークに生きるゲイたちを中心に進んで行く。70年代にウォホールのファクトリーに集まってきたゲイ連中とは違い、このドラマに登場するゲイたちは、弁護士や看護士といったどちらかというとカタギの職業についているごく普通の男たちである。エイズに冒されて死を宣告されたゲイ、彼から去って行く恋人。モルモン教の家庭で厳格に育てられたために自らのゲイへの欲望を抑圧してきた若き弁護士、そして、欲求不満からドラッグ中毒となるその妻。彼らの間で繰り広げられる性愛や生と死をめぐる葛藤がときにシリアスに、ときにコミカルに淡々と描かれていく。極めてシリアスなテーマを扱っているのだが、随所に気の利いたユーモアがちりばめられており、役者たちの熱演も手伝って6時間という長丁場も全く苦にならなかった。腐ってもアメリカ。とても質の高いヒューマンドラマだった。
こうしたドラマをTVで放映することのできるアメリカという国に嫉妬を感じてしまうのは僕だけだろうか。グルメ番組やアイドル番組に占拠された日本のTVシーンではまずこうしたドラマは作られることはない。ゲイ、エイズ患者、ユダヤ教徒、モルモン教徒、それら社会的マイノリティーへの偏見と、共和党政権の偽善や環境破壊など、80年代、レーガン政権の下、「強きアメリカ」が抱えていた様々な暗部が、登場人物の吐く一つ一つの台詞の中に凝縮されてマシンガンのように連射されてくる。時折出てくる、シェークスピアの戯曲のように大仰な言い回しに食傷気味になることもあったが、合間に挟まれるシュールな演出が何とも笑えて、シリアスさとユーモアの畳み掛けのバランスが何とも言えない味わいを出していた。
僕はアメリカで暮らした経験はないが、made in USAの人間ドラマを観ると、あの国はやはり激烈な宗教国家なんだなぁといつも思ってしまう。多様な人種と多様な宗教、そして多様な文化。そこでは異質なものたち同士の接触や衝突が日常茶飯事のように起こっているわけで、こうした国に暮らす人々の精神は本当にタフだ。タフでいられるための信念や信条を何に依拠しているかとなると、結局のところ信仰心ということになるのだろう。あの国で無神論者を自称するにはよほどの勇気がいる。真の無神論者とは、命がけで「神は存在しない」と言える人を指す。その意味で、無神論もまた一つの信仰の体系なのだ。
神の在・不在の真偽は別として、結局のところ、人間は神について考えることなしに思考を進めることはできない。「現代日本人の精神」というものがあるかどうかはよく分からないが、もしあるのならば、その精神も早く開国すべきである。
「マグノリア」のような作品が好きな人は見て損はない。三本組なので、週末当たりに一気に観ることをおすすめする。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 1 • Tags: ユダヤ