1月 19 2013
新しい時代の秘儀参入
人間と「人間の反対」は太陽系においては地球と月に反映されているとOCOT情報はいいます。これは地球が物質空間を支えていて、月がエーテル空間(反転した空間)を支えているという意味です。この二つの天体が持った空間の広がりは、地上では物質からの広がりと身体からの広がりに対応しています。ですから、地球の自転は物質空間の生成に対応しており、月の公転はその物質空間において物質空間を受け止める物質的身体、つまり、肉体の関係を意味しています。
つまり、地球と月の公転はモノを中心にして人間の肉体が回ることと同じ意味を持っていると考えて下さい。しかし、ここで重要なのは「月が地球に対して決して裏をみせない」ということです。こうした状態をモノと肉体との関係で形作るためには、肉体は絶えずモノを見つめながらモノの周りを回らなければなりません。このとき肉体はモノに対して単に公転するだけではなく、かつ、自分自身も自転しています。
ただ、ここで物質空間だけ見ていたのでは、月の自転の意味を見失ってしまいます。この月の自転が意味していることとは一体何かを考えることが重要です。そのためのヒントは、前回示した「エーテル空間での無限遠の内側への畳み込み」という反転概念にあります。「公転することが自転に変わる」とは前回の図に即して言えば、周縁として働いていた円が中心としての点への機能へと変換させられているという意味を持ちます。ですから、月の自転は月の公転を反転させている様子として見なくてはなりません。月の公転は地球からの広がりの中で起こっているのですから、物質空間に準じています。しかし、月の自転の方は反転していますから、エーテル空間に準じています、つまり、地球から広がる空間と月から広がる空間は反転しているわけですね。こうして、OCOTが「人間と人間の反対は太陽系においては地球と月に反映されている」という意味が空間認識の文脈から理解できるようになります。
科学はこうした公転周期と自転周期の一致を「1対1の軌道共鳴」と呼びますが、その物理学的原因は明らかではありません。しかし、このように反転した空間概念が生まれてくると、月の公転と自転は物質空間とエーテル空間の相互反転関係における両者のバランスを取っている状態として解釈することが可能になってきます。実際、OCOT情報は「月とは調整を行う力の柵」と言ったりもします。つまり、地球の自転によって生成されている物質空間に対して、月はそれを受け止めながらも、それを秘密裏のうちに反転させ、エーテル空間へとつなぎ意識の物質化を食い止めているのてす。月の自転と公転の寸分も違わない一致は物質空間とエーテル空間の絶対的な平衡関係にその原因があると考えてよいでしょう。
さて、地球が約28回自転する間に月は1回自転しています。このことはエーテル空間の中には聖数「28」として数えられる何らかの機構が存在していることを暗示しています。地球の自転数「28」とはその機構が物質空間において見えなくなって溶け出している状態だと考えられます。28日とは人間にとっては時間の長さのことですから、時間の経過として精神構造は溶け出しているということになります。
エーテル空間は反転していますから、前回、図で示したように物質空間におけるあらゆる位置を一点に統一する性格を持っています。これはエーテル空間が人間においては非局所的なものとして出現しているということを意味します。物質空間において様々な位置に局所的にばらまかれている物質も、エーテル空間で見ればそれは一つの位置で重なり合っていることになります。しかし、この重なりは無数の物質が多重に重なりを作っているという意味ではありません。物質の位置という「一つの概念」として重なり合っているという意味です。逆に言えば、この概念があるからこそ、わたしたちは物質に位置を与えることができています。
局所と非局所の重なりの関係をどう捉えていいか分からない人もいるかもしれません。これは簡単に言えば、自分が動いているか絶対静止状態でいるかの違いと考えれば、とりあえずはそれで十分です。ここでいう「絶対静止」というのは視界をPCのモニターのようにして見ている自分の状態を想像すれば事足りるでしょう。「動いているのはわたしではなく、世界の方だ」——そう考えれば、そのとき「わたし」はエーテル空間にいることになります。「生まれて自分は一度も動いたことがない」なんておそらく誰も思っていないでしょうが、ちょっとだけイメージをすれば、その「絶対不動」の場所が自分の人生にずっと寄り添ってこっそりと存在し続けていることが分かります。まずはそのこっそり感覚の方へと自らの意識の重心を移して下さい。そして、そのとき目の前に対象の統一位置としてのエーテル中心を想像し、そのエーテル中心を原点に持つ空間に注意を払って下さい。そこから超感覚的なものとしての純粋思考物体が存在する空間に入ります。
ここで純粋思考はどうやらイデアとしてのプラトン立体群を練り上げているようです。シュタイナーならばこのプラトン立体群を霊と呼ぶのでしょうが、それは純粋持続によって構築されている純粋な幾何学的構造体です。この構造体を人間が見いだすことは、それこそシュタイナーのいう「真夜中に太陽を見る」ことと同じ意味を持つのではないかと思います。月の太陽へのメタモルフォーゼと言ってもよいかもしれません。そして、その構造体を数学的に見ていくと、現代物理学が水素とヘリウムと呼んでいるものを生み出す機構になっているように見えます。もし、このような状態で、自らの目の前のエーテル中心に太陽の生成が見えてきたとき、意識は地球と月の領域を離脱し、すでに地球の公転軌道へと入っていると考えなくてはなりません。これは当たり前の話ですね。目の前のエーテル空間の中心になにやら構造を持った幾何学体がうごめいており、それが水素からヘリウムへの核融合として表されている………それは太陽と地球の公転軌道の関係そのものです。
新しい時代における秘儀参入。それにはもう象徴的思考も、修行も、瞑想も入りません。だれもがある程度の思考努力によって自由に参画可能なものとなるでしょう。そして、この秘儀参入は今まで科学が解き明かしてきた物質の外皮の構成を、その裏側から見る能力を持ったものになります。つまり、物質の存在意味がすべて自分の内在性として把握されるようになってくるということです。これ以上のエンターテイントメントはありません。ほんと楽しいですよ。
2月 7 2013
存在の内部へ
奥行きと幅の間にはあらゆるパラドックスの原型がある。その意味で言えば、奥行きと幅は哲学のパトスが発生する十字路とも言える。人間の思考の原理が同一性に依拠することと、人間が幅で世界を構成していることとはたぶん同値だろう。
奥行きが幅に浸食されることは、ハイデガー風に言うなら、被投された存在を意味している。外化した時間のことだ。奥行きそのものの中には内化している時間(持続)があり、この時間の方へリアルを感じ取るためには、奥行きが持った風景を可能な限り前景化する必要がある。
ただ、難しいのは、奥行きに身を投げ入れることがドゥルーズのいう差異化であるのならば、その風景は常に差異化を続けていくことによってしか、立ち現れることがない、ということだ。というのも、差異は所与のものではなく、所与を与える側のものだからである。
現代物理学の宇宙創成論は、奥行きで起こった出来事を幅の中で表現してしまっている。これを再び、奥行きにおける出来事として書き直すことが必要だ。それは存在をもの自体の次元から認識し直すこととも言えるが、それこそが「創造」の意味にほかならない。
わたしとは光である、に始まり、わたしはいかにしてクォークへと変身し、いかにして原子核へと変身し、いかにして元素体へと変身していくのか。こうした変身の物語を自らの奥行きの中に目撃していくこと。それは、シュタイナーのいうエーテル体、アストラル体、自我の開示に等しい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アストラル, エーテル, クォーク, シュタイナー, ドゥルーズ, ハイデガー, 奥行き